石塔の浸透時期とは? わかりやすく解説

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石塔の浸透時期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)

「やぐら」の記事における「石塔の浸透時期」の解説

石塔初見ということでは古く遡れるが、石製五輪塔宝篋印塔東大寺大勧進重源によって招聘され南宋石工である伊行末らの末裔達によって作られ始める。当初伊行末らは奈良・京都の大寺再建従事していたが、その末裔はそうした大寺院の大勧進として工事指揮していた律宗僧に率いられ全国広がる五輪塔宝篋印塔大寺院だけでなく上流階級墓所にも広まり始めるのは全国レベルでも13世紀からで、浸透したのは14世紀以降である。南関東限って見ると安山岩製の五輪塔宝篋印塔1290年代から始まる。そして1330年代に小ピーク迎え1380年代から1440年代にかけて最盛期迎えてそれ以降低迷する板碑埼玉県北部から始まる。特定宗派教義よるものではなく疫病流行休止など様々な願い込めたものもあるが、やはり個人供養自分達の逆修のためのものが多い。相模国最古のものは1244年寛元2年)。それが増加するのは13世紀後葉で、14世紀1340年代ぐらいがピークとなる。南関東ということでは埼玉県20,201基の板碑確認されており、詳細な報告書公表されている。それによると、作られた年の判るものは48%で、最古のものは1227年嘉禄3年)。10年単位集計ではピーク1361年から1370年777基で、200基を超えるのは1301年から1430年までである。また被供養者名は1314世紀のものにはあるにはあるがそれほど彫られてはいない。増えてくるのは15世紀入ってからである。それは板碑供養塔から墓標への変化対応しているとする意見もある。 安山岩石塔掘られ年紀は、安山岩加工出来石工関東に来た時期左右されるが、板碑1227年嘉禄3年段階で既に作られているので、南関東における石塔ニーズ高まりをこれで推測することが出来る。南関東限らず全国規模見ても、墓に石塔をたてることが多くなるのは14世紀である。鎌倉石彫られ五輪塔安山岩製の五輪塔より前にあった訳ではなく石塔全国広がった後、コストダウンのために各地地場石材代替したものとの見方が多い。つまり安山岩五輪塔よりも後となる。

※この「石塔の浸透時期」の解説は、「やぐら」の解説の一部です。
「石塔の浸透時期」を含む「やぐら」の記事については、「やぐら」の概要を参照ください。

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