真書説からの偽書とされた経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:24 UTC 版)
「江源武鑑」の記事における「真書説からの偽書とされた経緯」の解説
偽書でないとする説の提唱者からは、義郷が秀次事件に連座失脚して以来氏綱系の六角宗家が武家として仕官していないことから自らを本家と唱える庶流の説が権威を持った、江戸期には秀吉について触れることはタブーであったとしており、秀吉関連の事跡を隠蔽するために偽書とされた可能性があるという主張がされている。ただし、『江源武鑑』が流布された時期である江戸時代初期にも小瀬甫庵の『太閤記』や林羅山の『豊臣秀吉譜』など秀吉について触れた書は広く読まれていた。 また、江戸中期、氏郷、源内が共に没した後の1708年(宝永5年)、六角義賢(箕作家、六角家陣代)の子孫である加賀藩士・佐々木定賢(佐々木兵庫入道家)がすでに死去していた義賢流の旗本・佐々木高重を「本家を詐称した」として幕府に訴える事件が大きく関係しているという。 この訴訟に際して定賢が自らの家を六角氏正嫡に位置づけるために唱えた主張(『佐々木氏偽宗弁』系図綜覧所収)が建部賢明『大系図評判遮中抄』、近江の代表的な地誌『近江輿地誌略』(1734年)、『近江蒲生郡志』などに採用され、これらが世に広まった結果六角氏綱の子孫を嫡流とする本書は偽書にされたと説明するものもある。 また佐々木は、初版刊行当時は同書に記された六角氏の家臣、関係者も多くが生存しており、仮に源内が氏郷になりすます目的を持ってこの書を記したとすれば、たちまち露見し厳罰に処せられる可能性があるとしている。これは『六角佐々木氏系図略』に付属していた史料『京極氏家臣某覚書抜粋』に、「京都所司代が洛中で官位を詐称する者について追及を行っており、六角氏郷が京都所司代稲葉正則から喚問を受けた」という記述があることを根拠としている。ただし、この覚書抜粋は氏郷を嫡流とする系図に付属した史料であり、他の文書によって証明されたものではない。
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