県道船の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 08:38 UTC 版)
「三重県道750号阿児磯部鳥羽線」の記事における「県道船の歴史」の解説
日本では1872年(明治5年)に学制が発布され初等教育が開始された。翌年の1873年(明治6年)9月に的矢湾沿岸の的矢村(現在の志摩市磯部町的矢)に的矢学校が設置され、1887年(明治20年)に的矢湾内の渡鹿野島と的矢湾対岸の三ヶ所地区に分教場が作られた。1892年(明治25年)に三ヶ所分教場は独立し、的矢学校は甲賀村の志摩高等小学校の分校となった。渡鹿野島分教場は1899年(明治32年)に1-2年生のみの通学となり、3年生以上は的矢へ通学することになり、1908年(明治41年)に廃止され、全学年が的矢へ通学することとなった。三ヶ所地区では三ヶ所尋常小学校となったのち、1908年(明治41年)に的矢小学校と合併し、三ヶ所地区でも船での通学が必須となった。 そのため地元住民による通学のための人力での渡船の運航が1921年(大正10年)より開始された。1946年(昭和22年)に動力船の「まとや丸」が導入された。的矢小学校への通学の渡船が1959年(昭和34年)に県道として認定、「県道船」と呼ばれるようになった。まとや丸は1981年(昭和56年)に新造船に交代し、2006年8月時点では1997年(平成9年)就航の5代目「まとや丸」が使用されていた。 2005年(平成17年)度の的矢地区の海岸高潮対策工事に伴い、的矢の船着場が東と西の2箇所に分かれていたが、船着場付近の工事が完了し、2005年(平成17年)9月1日より元の船着場に復旧した。2009年(平成21年)時点で、県道船は三重県ではこの路線のみとなっており、日本国内では全部で13箇所あった。 2018年(平成30年)度に、2020年(令和2年)度末での県道船の廃止が決定し、市民らは県道船の継続と渡鹿野島への海上交通の利便性確保を市に求めた。これを対して志摩市当局は県道船の代替手段を検討すると発表し、2021年(令和3年)4月1日より市運航船として継承した。ただし運航日は月・水・金曜の週3日(年末年始運休)、1日の運航便数は3便に減便した。
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