疑行は名なく、疑事は功なし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 17:41 UTC 版)
「孝公 (秦)」の記事における「疑行は名なく、疑事は功なし」の解説
孝公はついに衛鞅を信用した。孝公は強国策を実行に移す手始めとして、まず国政の抜本的改革を断行しようとしたが、世論の非難を恐れてためらっていた。そこで衛鞅は進言した。 「 「成功も名誉も自信なしには得られない、とかく非難の的にされがちなものです。終わってしまっても気づかぬのが愚者、それに対し知者は始まる前から察しをつけることができるのです。したがって人民には、計画段階では知らせず、結果だけ享受させればよろしいのです。至上の徳を論ずるものは世俗に迎合せず、大功をおさめんとする者は、多勢の人間に相談はせぬもの。人民に利益になることならば、従来の慣習に従う必要はございません 」 孝公はこれに賛意を表した。このとき甘龍(中国語版)が進み出て反論した。 「 いや、そうではございません。慣習を変えずに人民を導く者こそ聖人であり、法を変えずに立派な政治をおこなう者こそ知者といえます。慣習に従って人民を導くならば、無理は少なく効果があがろうというもの。同様に、従来の法によって統治すれば、実務にあたる官吏が習熟しているので、人民も安心して従うでしょう。 」 「 甘龍の意見は俗論です。凡人は慣習だけを頼りとし、一方、学者は知識だけに満足するものです。この両者は、官吏として既成の法を守らせることはできますが、所詮はそこ止まり、それ以上のこととなると、まるで問題になりません。そもそも、古来、礼も法も一定不変ではなかったのです。夏・殷・周の三代は礼を異にしながらいずれも王者になり、春秋の五覇は異なる法によって、それぞれ覇者となりました。つまり、いつの時代でも知者が法をつくり、愚者がそれに従う。賢者が礼をあらため、不肖者がそれに束縛される…こういう関係になっているのです 」 衛鞅がこう主張すると、こんどは杜摯(中国語版)(とし)が反論した。 「 器具にしても、効用が十倍になるのでなければ変えないもの。法となれば利益が百倍になるのでなければ、変えてはいけません。なんにつけ従来通りの方法にのっとり、古来の礼に従っておれば、間違いは起こりません 」 衛鞅はこれを受けて立つ。 「 政治の方法は、固定したものではありません。国家にとって有益とあれば、遠慮なく変えるべきです。たとえば、湯王・武王は古来の道に従わずに王者となり、夏の桀王、殷の紂王は古来の礼を変更しないのに滅びました。ですから、慣習にそむくからといって非難すべきではありません。また、古来の礼に従うからといって、誉めるには値しません 」 孝公はふたたび衛鞅の考えに賛成した。そして、衛鞅を左庶長に抜擢し、国政改革の命令を下した(紀元前359年/『史記』六国年表では紀元前356年)。
※この「疑行は名なく、疑事は功なし」の解説は、「孝公 (秦)」の解説の一部です。
「疑行は名なく、疑事は功なし」を含む「孝公 (秦)」の記事については、「孝公 (秦)」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から疑行は名なく、疑事は功なしを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 疑行は名なく、疑事は功なしのページへのリンク