畜産業・乳業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 20:48 UTC 版)
明治20年代頃より民間でも酪農業が盛んになった。 1902年(明治35年)に吉尾村に吉尾煉乳所が建設され、安房地域で最初に真空鍋を導入して煉乳を生産したが、経営不振で廃業。1906年(明治39年)には大川面に真田煉乳所が工場を設け、煉乳とバターを生産した。事業は成功して磯貝煉乳所(大山村)と並び称された。1913年(大正2年)ごろに嶺岡種畜場の牛乳を引受けることになり、嶺岡農場煉乳製造所と改称した。 1916年(大正5年)、吉尾村の中村芳三・保井万次郎・西川健二の兄弟は、勝山町で愛国煉乳合資会社を設立。このころ、嶺岡農場煉乳製造所は愛国煉乳合資会社に事業を譲渡した。翌1917年(大正6年)、森永製菓株式会社は愛国煉乳を買収し、日本煉乳株式会社を設立した(のちの森永乳業)。
※この「畜産業・乳業」の解説は、「吉尾村 (千葉県)」の解説の一部です。
「畜産業・乳業」を含む「吉尾村 (千葉県)」の記事については、「吉尾村 (千葉県)」の概要を参照ください。
畜産業・乳業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 20:50 UTC 版)
1916年(大正5年)に設立された房総煉乳株式会社(明治乳業の源流)は、地域の中小企業を統合していったが、1918年(大正7年)に南小町に主基工場を新設している。
※この「畜産業・乳業」の解説は、「主基村」の解説の一部です。
「畜産業・乳業」を含む「主基村」の記事については、「主基村」の概要を参照ください。
畜産業・乳業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 06:57 UTC 版)
峯岡牧(嶺岡牧場)周辺は日本の酪農史で大きな役割を果たした地域であった。明治20年代頃からは民間でも酪農業が盛んになり、大正期から昭和戦前期にかけ、安房地方は日本の煉乳生産の中心地のひとつとなった。 当地出身の竹沢弥太郎は、1879年(明治12年)に東京に出て築地で牛乳店を開いた。安房出身者が東京で牛乳販売に携わった早い事例とされる。 竹沢弥太郎は1881年(明治14年)に米国産短角種の種雄牛1頭を導入するなど畜産業において先駆的な役割を果たし、1887年(明治20年)に有志が設立した安房種畜組合では頭取となった。竹沢は1890年(明治23年)に渡米してホルスタイン種50頭を輸入し、郡内で販売したり農家に預託したりするなど普及に努めた。1912年(明治45年)には、千葉県畜牛共進会が大山村で開催された。 1893年(明治26年)、東京海陸社の根岸新三郎が、金束に「安房煉乳所」を創設、練乳・バターの生産に乗り出した。これは安房郡で最初に設立された煉乳工場であった。しかし安房煉乳所は経営不振のため経営者が転々とし、1903年(明治36年)磯貝岩次郎の所有となり(磯貝煉乳所に改称)、ようやく経営が安定した。磯貝煉乳所の「鳳凰印」練乳は品質面でも評価され、明治屋にも特約販売された。 1916年(大正5年)、竹沢太一(竹沢弥太郎の子)らによって「房総煉乳株式会社」が設立された(本店:大山村金束)。竹沢は、安房地域の牛乳加工業の不振を資本が過少であることに求め、群小の業者(ほとんどが個人経営だった)の糾合を目指し、大山村の磯貝煉乳所を買収して磯貝を取締役に迎え、会社を設立したのであった。1917年(大正6年)4月16日、明治製糖が房総煉乳に資本参加し、以後その資本力で安房郡の煉乳工場をほぼ手中に収めた。房総煉乳は1920年に明治製糖傘下の東京菓子株式会社(のちの明治製菓)と合併して解散するが、その事業はのちの明治乳業に至ることになる。
※この「畜産業・乳業」の解説は、「大山村 (千葉県)」の解説の一部です。
「畜産業・乳業」を含む「大山村 (千葉県)」の記事については、「大山村 (千葉県)」の概要を参照ください。
- 畜産業・乳業のページへのリンク