琉球芸術調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 02:21 UTC 版)
鎌倉は二次にわたり琉球芸術調査を行なった。第一次が大正13年5月から同14年5月まで(伊東忠太と共同)。第二次は調査は大正15年から昭和2年までである。それに伴い鎌倉は、写真(ガラス乾板1229点、紙焼き写真2952点)のほか、調査ノート81点、型紙などの紅型資料2154点、陶磁器資料67点など、総計7512点におよぶ沖縄の文化・歴史に関する資料を残した。それらは沖縄戦により打撃を受けた沖縄文化の保存と伝承に貢献した。鎌倉の記録資料は、遺族により沖縄県立芸術大学に寄贈され、保存されている。例えば、歴代琉球国王の御後絵は沖縄戦で焼失したが、写真資料が保存されたことでその様態を知ることができる。 鎌倉は、東京美術学校写真科主任の森芳太郎から新即物主義の技法を学び、3年はかかるとされたドイツ製ダゴールF6.8レンズの四ツ切写真機の技術を3日でマスターしたといわれ、戦後、写真家の木村伊兵衛から「この写真は大正時代の写真資料として貴重なもの」と賞賛された。また、竹内栖鳳の弟子、穴吹香村からスケッチの方法も学んでおり、その腕の確かさは『沖縄文化の遺宝』の正編で見ることができる。 戦争中、東京、沼袋にあった自宅は空襲で消失したが、鎌倉は防空壕に写真乾板を持ち込み、結果的にこれを守り抜いた。
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