琉球王国の神女体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 04:53 UTC 版)
琉球王国は、第一尚氏王統のときにすでに、首里の佐司笠/差笠(さすかさ)という祭司と国頭地方(今帰仁)由来の阿応理屋恵(煽りやへ/オーレー)という祭司を最高位とする祭政一致を行ってはいたが、当時はまだ各地域の神女体制は階層化されていなかったとされる。第二尚氏王朝の尚真王の治世に、全国の神女体制を整理し、琉球神道と統治機構を一体化した全国的な祭政一致体制を確立した。「ノロ」という呼称はそのときに神職の正式名称として制定されたものだが、祭祀制度そのものはそのとき初めて制定されたものではなく、以前から各地域に女性の祭司がおり、各地域の祭祀を司っていたと考えられている。尚真王はすでにあったこれらを整備し、中央集権的に階層化したのである。なお、ノロにあたる女性の祭司を八重山では「ツカサ(司:「神」と同義)」と呼称する。また、これら神職者は総称として便宜上「神女」と通称される。 これは尚真王代に全国のノロの頂点として制定されたのが「とよむせだかこ」(名高き霊力溢れる君)の異名を持つ聞得大君だった(聞得大君は「最も名高い君」という意味)。聞得大君は琉球国王を守護する国王のおなり神であり、王国を守護し豊穣をもたらす神とされた。事実、初代の聞得大君は尚真王の妹である。それまで、国王に仕える神女の権威は国王を上回るようになっており、尚真王の即位についても、母オギヤカが高級神女と結託して謀略を巡らしただめだったという逸話も残っている。(この伝説ではしばしば「聞得大君が関与した」という言説が出てくるが、それは誤りで、尚真王以前に聞得大君職は存在していない。おそらく佐司笠か阿応理屋恵ではないか)。こうした国王と神官の権力関係も尚真王の時代に改められ、聞得大君職は権力として国王の下位に置かれている。 聞得大君は王家の女性(先代王の妻であることが多かった)から選ばれ、首里城内の10の御嶽と斎場御嶽を掌管し全国のノロたちを支配していたが、ノロへの任命辞令は国王から発せられていた。これは制度的にはあくまで国王が神女組織を支配していたことを示すものと考えられている。聞得大君の下には、それ以前からの有力な神女である(首里)阿応理屋恵、佐司笠などの「君」や、首里の三間切(三平等:みふぃらと呼ばれた)をそれぞれ掌管する3人の「大阿母志良礼(おおあもしられ)」がおり、その下に各地方を統括する「大阿母」たち、さらにその下に各地域の祭祀を管轄する「祝女」を配するヒエラルキーを形成していた。なお、高級神女たちを総じて「三十三君」と呼んでいた(三十三君については、33人ではなく「三十三」は「百」のように「大勢」ほどの意味とする説が有力)。そのほとんどは首里に在住し、王家となんらかの血縁関係にあったと考えられている。 当時のノロは領地を認められた一種の地方大名だった。また、犯罪などの問題があった場合に、一種の神聖裁判を行った記録もあり、信仰を背景に地域自治にも大きな権能を有していたことが推察される。
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