理化学的手法による亜硫酸ガス処理の完成
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「日立鉱山の大煙突」の記事における「理化学的手法による亜硫酸ガス処理の完成」の解説
戦後になると排煙中に含まれる亜硫酸ガスの除去について、長足の進歩がなされるようになる。まず1951年(昭和26年)には高濃度の亜硫酸ガスの発生源であった製錬の転炉ガスと焼結炉ガスを利用した、ルルギ式接触法による硫酸工場が完成する。この硫酸工場の稼動開始によって日立鉱山が排出する亜硫酸ガスはほぼ半減し、煙害は激減した。この煙害の激減を受けて、大煙突と制限溶鉱による煙害防止策を支えてきた日立鉱山の充実した気象観測網はその役目を終え、1952年(昭和27年)2月に廃止されることになった。しかし神峰山観測所についてはこれまでの気象観測の実績と茨城県北部における重要な気象観測点であるため、気象庁など気象関係者から廃止に反対する意見が出され、1952年(昭和27年)6月に日立市営の日立市天気相談所の発足に併せて日立市に神峰山観測所の機能が引き継がれることになった。なお、神峰山の気象観測は1973年(昭和48年)以降、無人の機械観測となっている。 1951年(昭和26年)の硫酸工場では、溶鉱炉から排出される濃度の低い亜硫酸ガスは硫酸製造工程に乗らなかったためにそのまま排出され続けた。この残り約半分の亜硫酸ガスの処理が続いての課題となった。この課題は製錬法の革新によって乗り越えられた。これまでの溶鉱炉を使用する製錬法から、溶鉱炉を省略していきなり転炉から工程を始める酸素製錬法が実用化したため、転炉で発生する高濃度の亜硫酸ガスから硫酸を製造するようになったのである。1958年(昭和33年)に稼動が開始された後、亜硫酸ガスは約7割前後除去されるようになった。 そして1972年(昭和47年)12月、製錬で発生する亜硫酸ガスの98パーセントという、ほぼ全量を硫酸製造に使用する自溶炉法の製錬所が完成した。こうして日立鉱山の亜硫酸ガスによる煙害問題はようやく終結を迎えた。この頃、高度経済成長に伴い、日本全国各地で公害問題が極めて大きな社会問題としてクローズアップされていた。このような時代背景もあって、日立鉱山の大煙突は思いもかけない形で脚光を浴びることになる。
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