理化学的手法の挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:50 UTC 版)
「日立鉱山の大煙突」の記事における「理化学的手法の挫折」の解説
煙害の主因は排煙中に含まれている亜硫酸ガスであるため、排煙中の亜硫酸ガスを取り除くことが出来れば問題は大きく軽減される。そのため日立鉱山では1911年(明治44年)6月に排煙中の亜硫酸ガスの活用とともに煙害減少を目的として、排煙中の亜硫酸ガスから鉛室法を用いて硫酸を製造する試験工場を建てた。しかし排煙中の亜硫酸ガス濃度が安定しなかったため、なかなか硫酸製造が上手くいかなかった。そこで硫化鉱を焙焼して発生する亜硫酸ガスを使用する方式に変更したところ、ようやく操業が可能となった。しかし当時はまだ化学工業が未発達であり、硫酸を使用する化学肥料や化学繊維工場も日本国内には無かったため、肝心の硫酸は思うように売れずに1915年(大正4年)12月には工場は休止に追い込まれた。 その他にも煙道に沈着した硫黄から二硫化炭素を精製し、殺鼠剤として売り出す試み、さらには溶鉱炉内に重油を加えて硫化水素を発生させ、亜硫酸ガスと反応することによって硫黄を回収するという還元溶鉱炉の試験も行ったが、やはり上手くいかなかった。
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