現実の国家要塞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 03:16 UTC 版)
国家要塞は当初ドイツ側に建設する予定はなく、単にプロパガンダ上のものであった。しかし戦況が悪化した1944年11月6日にチロル=フォアアールベルク帝国大管区指導者フランツ・ホーファーが、継戦の根拠地として要塞地帯の建設を提議した。ホーファーは要塞が和平時の取引材料になると考えていた。しかし、おりからアルデンヌ反撃作戦の準備に追われていたドイツに要塞建設の余裕はなく、ホーファーの提案は却下された。 しかし政府・軍の幹部がドイツ南部に疎開しようとする動きは常にあった。たとえば4月13日、日本の大島浩駐独大使はドイツ外相リッベントロップと会談し、その模様を電報で日本に送った。 ソ連軍の攻撃がまもなく行われるため、日本大使館はバート・ガスタイン(「国家要塞」があるとされる地域の一つ)に移転してほしい。 今少し情報を検討した後、政府と国防軍最高司令部は南部に移動する。 この報告は日本の外交電報を解読していた連合軍にも知られていた可能性がある。 1945年になると、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル大将は心理的効果としての「国家要塞」に再注目し、4月12日にホッファーとヒトラーの面会を実現させた。ホッファーのアイデアに興味を持ったヒトラーは、4月17日に軍需省次官のカール=オットー・ザウル(de:Karl Saur)をホッファーと協議させた。しかしすでに「国家要塞」地帯には南北から連合国軍が迫っており、大規模な工場を造る余裕はすでに失われていた。ザウルが計画困難を報告したのは4月19日になってのことだった。 4月20日の総統誕生日の後、ゲッベルスを除く閣僚と国防軍最高司令部、陸軍総司令部、空軍総司令部はベルリンから疎開した。また、ザウルも国家要塞建設を命令され、ベルリンを離れた。ヒトラー自身はベルリン以外で死ぬことを希望せず、最期まで総統官邸の総統地下壕から離れなかった。しかしいずれの組織の疎開先にも要塞地帯などはなく、長く抗戦を続けることは出来なかった。ザウルも要塞地帯を建設することが出来ず、終戦を迎えた。
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