王安石の登用とは? わかりやすく解説

王安石の登用

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 18:27 UTC 版)

神宗 (宋)」の記事における「王安石の登用」の解説

即位後は地方政務実績のあった王安石登用し国家再建乗りだした。王安石による改革は「政・官・財軍事」の仕組み再編し朝廷効率化し、結果として賦税負担軽減することでの国の発展目標とするものであり、神宗もその王安石理念同意し全権与えた。 しかし、改革大地主大商人をはじめ、皇族などの既得権益犯す内容含んでいたため、保守派から大きな反対運動引き起こされた。官界でもその反対運動参加するグループ(後に旧法派称される)が誕生し政務放棄により王安石対抗する王安石宰相権限活用し、これらの反対勢力徹底的に押さえ込んだ。そして司馬光文彦博など反対派グループ次々と処罰加えた。この時、図書館司書長という閑職左遷され司馬光は、逆にこの機を利用して資治通鑑編纂行い、他の旧法派官僚民間文学詩文絵画教育など文人として活動し社会新し潮流生み出した。これは神宗王安石が、旧法派政治以外の社会的地位について保証し活動の自由を与えたことによるものとも言える王安石時代旧法派弾圧され時代と負の面で評価されることもあるが、現実には旧法派活動する時代であった神宗はこの旧法派勢力動揺したが、王安石による説得行われ新法運動継続されてゆく。また新法実施地域全国拡大しさらなる改革が行われた。また、旧法派対抗するため王安石派の呂恵卿曾布などの実務官僚次々と抜擢していった。 しかし熙寧7年1074年)、天災が相次ぎ、また新法派内部政策意見不一致発生したことから、神宗王安石解任する。それでも王安石同僚だった韓絳や腹心呂恵卿政権担当し新法運動継続されていく。こうした中、翌年呂恵卿上司に当たる韓絳と不和となり、独善的な政策決定行い新法活動無力化しようとしていることに対抗すべく、再び王安石登用し政権運営ゆだねることとなった再度任用された王安石は、周辺諸国との外交交渉貿易振興により辺境安定求め軍事費大幅に削減することに成功する国内では旧法派押さえ込んで新法実施地域拡大したことと銅銭大量発行効果出てきたことで国家財政好転、また賦税負担少なくすることで農村共同体再生成功し治安改善された。 しかし、今度王安石支持する新法党内部分裂発生し権力闘争引き起こされた。また、後継者である子の王雱病死したことや、神宗自身王安石の平和外交政権運営方法に不満を示すようになり、王安石新法への意欲失い朝廷から去ることになった

※この「王安石の登用」の解説は、「神宗 (宋)」の解説の一部です。
「王安石の登用」を含む「神宗 (宋)」の記事については、「神宗 (宋)」の概要を参照ください。

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