玄洋社の豹とは? わかりやすく解説

玄洋社の豹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 16:05 UTC 版)

中村天風」の記事における「玄洋社の豹」の解説

1876年明治9年)、大蔵省紙幣寮抄紙局(現・国印刷局初代局長中村祐興の息子として豊島郡王子村現東京都北区王子)で出生。父祐興は旧柳川藩士で、中村家柳川藩藩主である立花家遠縁にあたる。王子村本郷幼少過ごした後、福岡市親戚の家に預けられ修猷館中学入学。また六歳の時より立花家伝の剣術随変流の修業始める。随変流は立花宗茂流祖とし 戦国時代成立した流派で、剣術抜刀術をもつ。天風は後に随変流を極めることとなる。ちなみに、「天風」という号は天風が最も得意とした随変流抜刀術の「天風」(あまつかぜ)という型からとられたものである幼少期より官舎近く住んでいた英国人語学習い修猷館ではすべて英語で講義受けていたため語学に堪能となる。また、柔道部エースとして活躍していたが、練習試合惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程出刃包丁抜いて飛びかかってきた生徒刺殺してしまう。正当防衛認められたものの、修猷館退学となったその後1892年明治25年)に玄洋社頭山満のもとに預けられる天風玄洋社頭角現し気性荒さから「玄洋社の豹」と恐れられた。16歳時に頭山満紹介帝国陸軍軍事探偵諜報員)となり満州へ赴き、大連から遼東半島潜入し錦州城、九連城偵察を行う。日露戦争迫った1902年明治35年)には再度満州潜入し松花江鉄橋爆破したり、仕込杖青竜刀持った馬賊斬り合い演じるなどの活躍見せ人斬り天風」と呼ばれたという。1904年明治37年3月21日にはコサック兵に囚われ銃殺刑処せられるところであったが、すんでのところで部下救出された 。その後天風様々な危険を乗り越え、無事目的地大連到着した日露戦争備えて参謀本部放った軍事探偵合わせて113名いたが、そのうち生きて大連到着したのはわずか9名であった

※この「玄洋社の豹」の解説は、「中村天風」の解説の一部です。
「玄洋社の豹」を含む「中村天風」の記事については、「中村天風」の概要を参照ください。

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