玄洋社時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:24 UTC 版)
伊藤暗殺を果たせなかった杉山は、官憲の追及を避けて北海道に渡るなど、各地を転々としていたが、明治18年(1885年)、熊本県人・八重野範三郎の紹介により同郷の頭山満に出会い、心服して以後行動を共にした。頭山とともに福岡に戻った杉山は、玄洋社の経済基盤確立のため、頭山に筑豊炭田の取得を勧め、自らその資金調達に奔走、そのために当時元老院議官であった安場保和を福岡県知事に就任させた。明治21年(1888年)九州鉄道を創立。 玄洋社機関紙『福陵新報』(のち九州日報を経て、福岡日日新聞と合併し、現在は西日本新聞)創刊などにも関わり、結城虎五郎とともに「頭山の二股肱」と呼ばれた。またこの時期、玄洋社員・来島恒喜による大隈重信外相襲撃事件が起こり、多くの玄洋社員とともに杉山も嫌疑をかけられ収監されるという経験をした。
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