片島町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 19:54 UTC 版)
高梁川東岸に位置し、西阿知地区内の南部にあたる南北に長い地区である。 地区北端部に片島山と呼ばれる小高い丘があり、丘上には片島神社などの寺社があり、かつてはこの丘は島であった。周囲は海域であったが、長年にわたる高梁川の運ぶ土砂の堆積の作用により、江戸時代前期には干潮時は干潟が広がるようになった。そのため干潟の中の島であることから「潟島」と呼ばれるようになり、片島や堅島などと表記されるようになった。 南北朝時代の頃、豪族二階堂氏がこの島に城を築き、足利氏に属したといわれている。 江戸時代になると慶長5年より江戸幕府直轄領となり、元和2年に島の周囲の干潟を干拓し、片島新田を開墾した。寛永6年にはさらに干潟を開墾し、新たに新田を開発した。 幕末の『備中村鑑』には、浅口郡堅島村、828石4斗6升7合5勺、名主には中原健蔵とある。 明治期には北方の西原村と合併し甲内村に、その後西阿知村と合併し河内村、河内町を経て西阿知町となり、後には旧倉敷市に編入、新・倉敷市となり、現在に至る。 巻倒(まきたおし)集落は、当地の南端に位置し、水島地区の連島町西浦の宮浦集落と大橋川を挟んで接している。宮浦水門の高梁川出口があり、水羽波止(みずはねばと)の石巻工事を倒した跡がそのまま地名になった。当集落で、国道429号と岡山県道428号倉敷西環状線が分岐する。 当地北部を東西に国道2号玉島バイパスが通り、高梁川対岸の玉島地区へ高梁川大橋で連絡。また北東から南西へ、旧国道2号(国道429号)が縦貫している。そのため企業・商店の立地や宅地開発が盛んに行われ、かつて米やい草を栽培した農地は変貌した。企業では、玉島発祥でハエ取りリボンでシェア世界トップのカモ井が所在している。
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