火薬爆発説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 05:36 UTC 版)
王恭廠の火薬庫が災害の中心であったため、災害後には「王恭廠の焼失を防げず、首都に乱れを生じさせた」と言われている。また、王恭廠の爆発により「空が崩れ、暗闇は夜のようになり、一万室が沈没した」という膨大な死傷者と、王恭廠製の火薬の特殊性から、この事件は王恭廠の黒色火薬が爆発したことが原因と考える人が多い。 歴史的記録によると、「5日に1回、三大営には3,000斤以上の火薬が送られてきた」という。 これだけの量の火薬が燃え上がれば、一瞬にして高温高圧の気流が形成され、周囲に急速に広がり、衝撃で地面に穴ができ、建物を縦横無尽に倒壊させ、物を空中に飛ばし、 「巨大な振動音と急な落雷」 が起きることもある。 なぜ火薬が爆発したのかについては、人為的な要因、つまり不注意な製造・輸送による摩擦起爆、あるいは後金がスパイを派遣して破壊させた可能性、あるいは、空気がない状態で火薬が分解し自然爆発した可能性、また、災害が発生した5月は乾季で空気の湿度が低く、火薬製造時に静電気や摩擦発火が起きやすかったとする学者の説が、後世に推論されている。 しかし、当時の普通の黒色火薬が、歴史資料に記述されているような、千斤の獅子像を街の外に吹き飛ばし、深さ数丈の巨大な穴を開け、男女の衣服を一掃して裸にしてしまうほどの2万トンのTNT火薬に相当する巨大な爆発力を持っていたのかどうか、火薬爆発説では説明できない。 また、王恭廠の爆発前に発生した地鳴りや火球などの兆候は、火薬の爆発によって生じたものと考えることはできない。 また、最も科学的な反証として、明王朝は100年以上にわたって火薬庫を管理してきた歴史を持ち、その間に多くの保管に関する安全距離や安全規制が培われていた。 そして現代の火薬庫の爆発では、火薬庫すべてが同時に爆発を引き起こすようなケースはない。通常、先に火薬庫の一部が爆発して一つずつ爆発していき周囲の他の火薬庫に拡大していくため、中小規模の爆発が続くものであり、全てが一斉に爆発するような核爆発のような威力にはならない。
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