火薬陰謀事件による失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 14:30 UTC 版)
「ヘンリー・パーシー (第9代ノーサンバランド伯)」の記事における「火薬陰謀事件による失脚」の解説
「火薬陰謀事件」も参照 1605年11月にロバート・ケイツビーを首謀者とする過激派カトリック教徒たちが、議会開会式を大量の火薬でもって爆破し、国王以下政府要人を皆殺しにしてカトリックの傀儡君主を立てる政府転覆計画(火薬陰謀事件)が露見した。その中核メンバーである5人の中にトマス・パーシーがいた。陰謀の発覚後、パーシーは逃亡したが、11月8日にウォリックシャーのホルベッチ・ハウス(英語版)での戦闘にてパーシーは射殺され、他の主だったメンバーも死亡するか逮捕された。 この陰謀にノーサンバランド伯がどの程度関わっていたのか、あるいは関わっていなかったのかは不明である。計画成功後には傀儡君主として立てたエリザベス・ステュアートの摂政になるという嫌疑もあった。伯爵は少なくとも犯罪隠匿の罪(陰謀を事前に知っていたにも関わらず当局への通報を怠った)の疑いがあった。ただ星室庁にはその罪で伯爵を有罪とするに十分な証拠はなく、さらに狙われていた議会開会式に出席する予定であったという伯爵の抗弁を崩すこともできなかった。一方で、国王の近衛隊ジェントルマン・アット・アームス(英語版)(Honourable Corps of Gentlemen at Arms)について、王に無断でトマス・パーシーを任命したことや、その際に彼の至上権承認の宣誓の確認を怠ったことを問題視され、有罪となったが、これは当初の罪状よりは遥かに小さなものであった。国王の意向によって伯爵はすべての公職から追放の上でロンドン塔に収監されることになり、約16年間そこに留まることとなった。また、3万ポンド(2019年の価値に換算して660万ポンド)の罰金を科せられたが、これは1613年に1万1000ポンドの支払いで国王に許された。
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