清正の熊本での事業とは? わかりやすく解説

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清正の熊本での事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:10 UTC 版)

加藤清正」の記事における「清正の熊本での事業」の解説

清正肥後国治めていたのは、天正15年1587年)から慶長16年1611年)の期間だが、朝鮮出兵等もあって実際に熊本居住していた期間は延べ15年程である。清正以前肥後は、秀吉九州平定後に「こんなに豊かな国は見たとがないと言ったように、国人でも豊かに暮らせたため有力大名現われず、国人割拠する時代続き佐々成政でさえも収拾できず荒廃していた。そんな中清正は得意とする治水等の土木技術による生産量増強推し進めた。これらは主に農閑期進められ男女問わず徴用されたが、これは一種公共工事であり、給金支払われた為みな喜んで協力したという。 「隈本(隅本とも)」を「熊本」に改称した理由は、隈本城改修工事落成した際に、清正が『「隅本」より「熊本」の方が勇ましかろうと言ったとの伝承伝わっている。 「白川坪井川大改修以前白川坪井川現在の熊本市役所付近合流し下通貫いて今の白川流れていたが、これを現在の流路に変更したのは清正である。熊本城築城の際、予定地の側に現代で言うところの都市河川である坪井川阿蘇からの火山灰含んだ白川合流する様を見て流路分けて城に近い坪井川内堀に、遠い白川外堀とする河川改修行った。また当時技術に於いて更に下流にある再合流地点に石塘を築き河川河口まで分流した。それは、それよりも下流地域まで氾濫から未然防ごうとする設計だった。 熊本4大河川改修白川坪井川の付替、緑川鵜の瀬堰、球磨川遥拝堰菊池川に於ける各種改修灌漑用水整備。これにより広大な穀倉地帯生まれた熊本平野八代平野玉名平野への干拓堤防の整備。これにより海岸に近い地域にも広大な畑作地域生まれた白川水系の主に熊本平野への灌漑事業に於ける、非常に実験的な用水技術馬場楠井手)等。当時としては先進的な測量土木技術賜物である。今日農業用水確保はこの時代遺構に頼る面が少なくない白川流域かんがい用水群(井手用水下井手用水馬場楠井手用水渡鹿用水)が2018年に、菊池かんがい用水群(築地井手原井手今村井手宝永隧道古川兵戸井手)が2019年国際かんがい排水委員会かんがい施設遺産認定されている。 なお、現在の堀川加藤忠広着工し細川忠利時代完了した白川坪井川を結ぶ農業用水路である。

※この「清正の熊本での事業」の解説は、「加藤清正」の解説の一部です。
「清正の熊本での事業」を含む「加藤清正」の記事については、「加藤清正」の概要を参照ください。

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