清正公堂の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/11 03:38 UTC 版)
その昔甲州の武将・武田信玄が大軍を引き連れて身延山を己の居城にせんものと攻めて来た。時は元亀3年(1572年)4月11日であった。その時一山の聖僧が(清正公堂の地)で鬼門除け(法敵退散)の祈祷を致した。その結果、神仏の加護があり、武田軍は身延の山を攻める事が出来ず、その後身延山と和睦して大信者となったと伝えられている。後に身延山五十七世究竟院日舜上人は法敵武将を鬼門除けの祈祷によって退散させた場所(清正公堂の現在の地)へ法華経の行者加藤清正公の尊像を熊本の本妙寺より迎えて安置し、以来清正公堂を鬼門除け祈祷道場として建立した。後日身延山に番地を作られるにあたって清正公堂の土地は鬼門を除けた貴い処であるという理由から、身延町の『一番地』と定められ、身延町はここより始められている。明治6年(1864年)2月23日に建立された清正公堂の本堂並びに彫刻は近来希有の建築物であり、堂内外の欄間の各彫刻などは伊豆地方随一の名工・小沢半兵衛親子が見事な鑿(のみ)さばきで実に国宝に準ずべき名工を遺してある。
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