海運業の展開とは? わかりやすく解説

海運業の展開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 07:15 UTC 版)

上村杢左衛門」の記事における「海運業の展開」の解説

1887年明治20年)、24歳左衛門個人事業として丸上汽船(㊤汽船部)を設立し福江港名古屋港田原港~牟呂港に航路開拓し三河湾初め定期航路開いた人物となった渥美半島沿岸煮干し鮮魚はこの定期船熱田魚市場運ばれた。1891年明治24年)から1892年明治25年)頃には、やはり個人事業として福江港亀崎港の航路開拓した1896年明治29年10月頃には衣ケ浦汽船株式会社設立し個人事業だった海運業株式会社組織とした。衣ケ浦汽船は衣ケ浦丸、第一明治丸木造30トン)、玄洋丸、第二明治丸木造50トン)などの船舶所有し1902年明治35年時点では福江港亀崎港~大浜港~半田港~三河一色港~知多港~大井港~師崎港日間賀港~篠島港~福江港一日一往復していた。1903年明治36年)には神代港(現在の伊勢市)や鳥羽港まで航路伸び、さらに福江港~牟呂港の航路開拓した1904年明治37年)に勃発した日露戦争では衣ケ浦汽船第二明治丸徴発され玄界灘樺太大連にも向かったとされる。 衣ケ浦汽船利益はなかなか上がらず1912年明治45年)には左衛門知多郡亀崎成田新左衛門知多郡師崎村伊藤一の3人の持株会社となったが、成田伊藤手を引いたことで左衛門両者持ち株買い取り、再び個人経営合資会社丸上汽船となった明治末期以降には各地海岸海水浴が行われるようになり、篠島に向かう海水浴客向けの割引なども行われている。1915年大正4年)にはこれら汽船事業から手を引き船舶航行知多郡半田町現在の半田市)の兼肉店に売却した汽船事業をやめた理由定かでないが、この年には衣ケ浦汽船の船から落ちて亡くなった者がいた。1年後には兼肉店から明治セメント売却され、さらに明治セメントから他者売却された。

※この「海運業の展開」の解説は、「上村杢左衛門」の解説の一部です。
「海運業の展開」を含む「上村杢左衛門」の記事については、「上村杢左衛門」の概要を参照ください。

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