海運業の展開
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1887年(明治20年)、24歳の杢左衛門は個人事業として丸上汽船(㊤汽船部)を設立し、福江港~名古屋港、田原港~牟呂港に航路を開拓し、三河湾に初めて定期航路を開いた人物となった。渥美半島沿岸の煮干しや鮮魚はこの定期船で熱田魚市場に運ばれた。1891年(明治24年)から1892年(明治25年)頃には、やはり個人事業として福江港~亀崎港の航路を開拓した。 1896年(明治29年)10月頃には衣ケ浦汽船株式会社を設立し、個人事業だった海運業を株式会社組織とした。衣ケ浦汽船は衣ケ浦丸、第一明治丸(木造・30トン)、玄洋丸、第二明治丸(木造・50トン)などの船舶を所有し、1902年(明治35年)時点では福江港~亀崎港~大浜港~半田港~三河一色港~知多港~大井港~師崎港~日間賀港~篠島港~福江港を一日一往復していた。1903年(明治36年)には神代港(現在の伊勢市)や鳥羽港まで航路が伸び、さらに福江港~牟呂港の航路も開拓した。1904年(明治37年)に勃発した日露戦争では衣ケ浦汽船の第二明治丸が徴発され、玄界灘や樺太や大連にも向かったとされる。 衣ケ浦汽船の利益はなかなか上がらず、1912年(明治45年)には杢左衛門、知多郡亀崎村の成田新左衛門、知多郡師崎村の伊藤一松の3人の持株会社となったが、成田と伊藤も手を引いたことで杢左衛門が両者の持ち株を買い取り、再び個人経営の合資会社丸上汽船となった。明治末期以降には各地の海岸で海水浴が行われるようになり、篠島に向かう海水浴客向けの割引なども行われている。1915年(大正4年)にはこれら汽船事業から手を引き、船舶や航行権を知多郡半田町(現在の半田市)の鳥兼肉店に売却した。汽船事業をやめた理由は定かでないが、この年には衣ケ浦汽船の船から落ちて亡くなった者がいた。1年後には鳥兼肉店から明治セメントに売却され、さらに明治セメントから他者に売却された。
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