海外領土の軍服とは? わかりやすく解説

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海外領土の軍服

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 21:14 UTC 版)

軍服 (ドイツ)」の記事における「海外領土の軍服」の解説

ドイツ領南西アフリカなどの植民地展開する保護軍(Schutztruppe)では主にカーキ色、のちフェルトグラウ軍服防水帽(Südwester)が使用された。防水帽のパイピングの色は、南西アフリカは青、東アフリカは白、カメルーンは赤。 ドイツ領南西アフリカでは1889年フランソワーズ部隊(Francois-Truppe)から詰襟6つボタン簡素な野戦服が着用される1891年6月4日に青の詰襟ポーランド式の袖に銀のパイピング配したコーデュロイ被服制定された。防水帽のほか、フランス風ケピ帽使用した。襟、ボタン合わせ、袖に青のパイピング配したカーキ防暑モデルもある。1894年6月11日コーデュロイカーキともに折襟となる。 ドイツ領東アフリカ保護軍(ドイツ語版)およびカメルーン保護軍では前身のヴィスマン部隊1889年よりカーキ野戦服、白の勤務服プルシアンブルーパレード礼装3種類を使用徽章海軍型袖章あるいは陸軍肩章のみの簡素なものであったが、保護軍への昇格きっかけ1891年7月4日新型被服導入袖口ブランデンブルク型のボタン襟章などが追加される1896年11月19日植民地統一被服制定される帽子官帽となるほか、袖もポーランド式の山形袖から直線変更1897年3月11日フェルトグラウとなる。 義和団の乱後の1900年7月より天津中国語版)に派遣されていた東アジア遠征軍団(Ostasiatisches Expeditionskorps)では遠征野戦服が導入され、夏はカーキ色、冬はM1893であったが、翌年2月9日より冬服フェルトグラウ軍服導入される外観後年の共通野戦服に似ている1904年以降、夏もフェルトグラウとなったM1896コーデュロイ野戦服、外地派遣前にスタジオ撮影され一葉1904年M1897着用ドイツ領南西アフリカ保護将兵。左は完全軍装の騎兵、右は礼装将校下段には、灰緑色ウール布地のほか、カーキ色コットン布地使用されているとの記載がある。(1901年ドイツ領東アフリカ保護将兵左より通常勤務服軍曹野戦服の少尉アスカリ1901年カメルーン保護防水カメルーン保護アスカリ1910年東アジア遠征軍M1900夏季野戦服(1900年9月

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