流しと「艶歌」とは? わかりやすく解説

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流しと「艶歌」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 13:56 UTC 版)

演歌」の記事における「流しと「艶歌」」の解説

1960年前後同時代的に「艶歌」と称されるジャンル生まれたが、それは明治期演説歌とも、後世演歌とは異なり夜の街の「流し」の系統流し出身歌手と、流しテーマにした歌の2種類がある)に限定されていた。代表的な艶歌歌手こまどり姉妹1959年デビュー)で、三味線流し生計立てていたという生い立ちから「貧しさ」や「不幸」のイメージプロモーション増幅された。また、作曲には同じくたたき上げ遠藤実起用した。同じ時期小林旭映画渡り鳥シリーズ」でのギター流し役が当たり役になるが、小林の「流し」は豪放磊落曲調多彩、というこまどり姉妹対極にあるものであった。この両者プロデュースしたのが、コロムビアディレクター馬淵玄三である。 当時流し任侠との親和性高く任侠映画艶歌は同じ支持層持っていた。アイ・ジョージ流し任侠イメージ否定的であり、流しリクエストの殆どが日本流行歌であったが、ジョージがやりたかったのはジャズなどの洋楽であった。やがて「インテリ向き流し」として成功すると、デビュー後洋楽を主に行った。それと対称的なのは北島三郎で、初期には「ギター仁義」「兄弟仁義」など、任侠テーマにした楽曲出した流し特徴は、作者不詳共作にあった。「北上夜曲」「北帰行」(ともに1961年)がその端緒とする。1962年には田端義夫奄美地方新民謡島育ち」を再発見して発売あわせて奄美関係の曲が大量にヒットする1964年には「お座敷小唄」(松尾和子和田弘とマヒナスターズ)が歌詞変えて共作された。次いで網走番外地」(1965年高倉健)、「夢は夜ひらく」(1966年園まり)が特に後年カバーされる。丁度この時期グループサウンズ誕生によるレコード会社専属作家制度解体期と重なっており、作者不詳の歌の流用その時代の要請応じた潮流であった考えられるまた、流し盛り場活動舞台としていたため、巷の詠み人知らず楽曲手に入りやすい環境であったともいえる。

※この「流しと「艶歌」」の解説は、「演歌」の解説の一部です。
「流しと「艶歌」」を含む「演歌」の記事については、「演歌」の概要を参照ください。

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