流しと「艶歌」
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1960年前後、同時代的に「艶歌」と称されるジャンルが生まれたが、それは明治期の演説歌とも、後世の演歌とは異なり、夜の街の「流し」の系統(流し出身の歌手と、流しをテーマにした歌の2種類がある)に限定されていた。代表的な艶歌歌手はこまどり姉妹(1959年デビュー)で、三味線流しで生計を立てていたという生い立ちから「貧しさ」や「不幸」のイメージがプロモーションで増幅された。また、作曲には同じくたたき上げの遠藤実を起用した。同じ時期に小林旭が映画「渡り鳥シリーズ」でのギター流し役が当たり役になるが、小林の「流し」は豪放磊落で曲調も多彩、というこまどり姉妹と対極にあるものであった。この両者をプロデュースしたのが、コロムビアのディレクター、馬淵玄三である。 当時の流しは任侠との親和性が高く、任侠映画と艶歌は同じ支持層を持っていた。アイ・ジョージは流しの任侠的イメージに否定的であり、流しのリクエストの殆どが日本の流行歌であったが、ジョージがやりたかったのはジャズなどの洋楽であった。やがて「インテリ向き流し」として成功すると、デビュー後は洋楽を主に行った。それと対称的なのは北島三郎で、初期には「ギター仁義」「兄弟仁義」など、任侠をテーマにした楽曲を出した。 流しの特徴は、作者不詳と共作にあった。「北上夜曲」「北帰行」(ともに1961年)がその端緒とする。1962年には田端義夫が奄美地方の新民謡「島育ち」を再発見して発売、あわせて奄美関係の曲が大量にヒットする。1964年には「お座敷小唄」(松尾和子、和田弘とマヒナスターズ)が歌詞を変えて共作された。次いで「網走番外地」(1965年、高倉健)、「夢は夜ひらく」(1966年、園まり)が特に後年カバーされる。丁度この時期はグループサウンズの誕生によるレコード会社の専属作家制度の解体期と重なっており、作者不詳の歌の流用はその時代の要請に応じた潮流であったと考えられる。また、流しは盛り場を活動の舞台としていたため、巷の詠み人知らずの楽曲が手に入りやすい環境であったともいえる。
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