法蔵部の興亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 14:31 UTC 版)
知られている限り最も古い仏教経典であるガンダーラ語経典は、明らかに法蔵部の学師に捧げられたものである。ガンダーラ語経典はガンダーラ語を聖なる言語として用いつつ1世紀頃の西北インドにおける法蔵部の隆盛を証するものであり、さらに中央アジア・北東アジアへの法蔵部の影響を明らかにしている。仏教学者アンソニー・ケネディ・ウォーダーによれば、法蔵部はアパラーンタ(英語版)で生まれたという。 法蔵部はギリシア人の仏僧によって始められたと長い間学者たちによって主張されてきた: 主な宣教師の一人にヨーナカ・ダンマラッキタがいる。彼は名前に表されているようにギリシア人の僧侶で(「ヨーナ」は「イオニア」に由来する)、「アラサンダ」(アレクサンドリア)の出身であった。彼は神通力の大家であると同時にアビダルマの専門家としてパーリ語圏仏教で大きな役割を果たした。彼はインド西部のギリシア人が占める地域へ行った。かつてプシルスキはフラウヴァルナーに倣って、ダンマラッキタ(dhammarakkhita)はダンマグッタ(dhammagutta、法蔵部)と同義であるから彼が法蔵部の創始者だと主張した。これ以降、この主張を非常にもっともらしいものとする二つの根拠が明るみに出た。一つは法蔵部に属するごく初期の写本で確かにヨーナカ・ダンマラッキタが見いだせるという肯定的な証明である。もう一つは、善見律毘婆沙(Sudassanavinayavibhāsā)において彼の名前が提出されることで「Dhammarakkhita」よりもむしろ明らかに「Dhammagutta」が提示されている 。 ある研究者によれば、ガンダーラ経典によって与えられる証拠によって「法蔵部は初期の成功をガンダーラのインド・スキタイ人に負っており、説一切有部のパトロンとなったクシャーナ朝(1世紀半ば-3世紀)の興隆によって結果的に衰えたと主張される」という。 法蔵部の律は5世紀初期に仏陀耶舎によって漢訳され、その後中国の出家信徒の間で支配的な律となった。しかし玄奘は、7世紀にアジアを旅した際に法蔵部がインド・中央アジアではほぼ完全に滅びていたと記録している[要出典]。法蔵部はウッディヤーナ(英語版)(烏萇)国や中央アジアには存在していたが、インド本土にはもはや残っていなかったと7世紀に玄奘と義浄が記録している。
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