沼と水不足解消の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 05:38 UTC 版)
小野川地域(旧筑波郡小野川村)は起伏がなく、湧水もほとんどないため、洞峰沼が唯一の水源であった。 江戸時代初期に天然の池を人工の灌漑用の水源に造り直したものとされ、1788年作成の地図には「松木池」として、現在の洞峰沼の5~6倍の大きさで描かれている。1883年(明治16年)発行の迅速測図では、上池(上原池)・下池(小野崎池)の2つに分かれ、面積は現在の3倍であった。沼には数本の小川が流れ込み、沼の水は小野川を経て霞ヶ浦へ達した。年間降水量が1300mmと少なく、沼の水は常に不足しており、水争いも深刻だった。そこで、1928年(昭和3年)より耕地整理法の適用を受けて、上池の西半分の泥を浚って水深を増し、残りの東半分を埋め立てて水田とする工事が行われた。これを洞峰沼改修工事と言い、1932年(昭和7年)に完了した。 しかし、洞峰沼改修工事では根本的な水不足は解消できず、完工の翌年と翌々年には大旱魃(かんばつ)に見舞われた。茨城県は農民の窮状を見て霞ヶ浦から水を引く小野川用水の計画を立案した。当初は霞ヶ浦からこの地まで水が引けるわけがないという意見が多かったが、1936年(昭和11年)3月に事業着手に漕ぎ着けた。事業開始後も物価高騰、建設地の土質不良など多くの困難に直面したが、1938年(昭和13年)6月に総工費18万円をかけた事業は完成を見た。工費は半分を国が、4分の1を茨城県が、残る4分の1を地元が負担した。 第二次世界大戦後の1952年(昭和27年)から県営土浦農業用水事業が行われ、土浦市ほか1町14村で土地改良区が設置された。土浦用水事業を見届けた洞峰沼耕地整理組合は1971年(昭和46年)に「大池回生」の石碑を建てて解散、小野川地域の水問題は解消した。 翌1972年(昭和47年)、筑波研究学園都市の建設に伴い下池は埋め立てられ、上池は縮小して洞峰公園内に残された。下池の跡地は学園西大通りと宅地になった。
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