沖縄における墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 16:13 UTC 版)
「宮古島島民遭難事件」の記事における「沖縄における墓」の解説
犠牲者の全遺体は54体で、44体分の頭蓋骨は出兵の凱旋時に収集し、長崎を経て那覇に運んだ。1875年(明治8年)2月、当初は那覇市若狭の「上ノ毛」に埋葬。1898年(明治31年)3月、波の上の護国寺に移転、県知事(当時)奈良原繁が揮毫した「台湾遭害者之碑」が建立された。1980年(昭和55年)10月25日に再改修し、犠牲者の氏名を刻印した。墓前祭には救助者の子孫、楊添才(楊友旺の孫)、林錦栄、(阿九子孫)、楊乙妹代(天保子孫)が招かれた。宮古島の遺族も出席した。当時の新聞によると、臨海寺、神宮寺、神応寺、神徳寺、遍照寺、誓願寺、観音寺、竜洞寺、仙寿院、善興寺、円覚寺、天界寺、天王寺、崇元寺、真教寺などの僧侶が護国寺に集まり、読経のあと、奈良原男爵、小川師範学校長、その他の有志の祭文、詩歌、俳諧などの朗読があって、焼香礼拝、墓の竣工の慶宴をはった。師範生徒も祭場に整列し、焼香礼拝したとある。 なお、頭蓋骨の輸送については、当時の文書には、内務卿伊藤博文をはじめとして横山租税権助、林海軍大佐、内務大少丞、蕃地事務局長官(長崎)、琉球藩津波古親方、久志里之子親雲上、本永里之子親雲上、池城親方、浦添親方、宜野湾親方、伊江王子らの名前がみえる。
※この「沖縄における墓」の解説は、「宮古島島民遭難事件」の解説の一部です。
「沖縄における墓」を含む「宮古島島民遭難事件」の記事については、「宮古島島民遭難事件」の概要を参照ください。
- 沖縄における墓のページへのリンク