江戸川乱歩賞への挑戦
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意見対立から『華の嵐』を降板し急に長期の時間が出来た長坂は幼少の頃からあこがれていた江戸川乱歩賞に応募するため本格的に動き出す。脚本業を1年間休業し、その間銀行に年収分の3000万円を借金することになった。家族には「借金は気にせず普通に生活しろ。俺も気にせず毎日酒をジャンジャン飲む」と言ったという。また小説執筆のためにホテルにカンヅメするため、そのホテルに200万円を先払いしたという。 江戸川乱歩賞受賞作『浅草エノケン一座の嵐』は初応募で受賞、と単行本の作者紹介には記されているが、実際は長坂は工業高校時代に『消えたハムレット』という作品を応募しているため(その作品は第一次予選も通過しなかった)2度目の応募になる。またこの時長坂は乱歩賞以外に当初サントリーミステリー大賞、横溝正史賞にも同時に作品を応募する予定だった。しかしそれを知ったテレビ朝日の五十嵐は「あなたは3つ出そうとすると絶対にどれも中途半端な出来になる。頼むから2つにしてくれ」と長坂に忠告し、乱歩賞とサントリーミステリー大賞の2つだけを狙うことになった。ただ結果的にはもともとサントリー用に書いていた『エノケン』が締切りに間に合わず、乱歩賞のみに応募する事になった。 小説の執筆のために長坂は数人の学生アルバイトを雇った。その中には平成仮面ライダーシリーズのプロデューサーで後年名を馳せる東映の武部直美もいた。 締切り1ヶ月前に原稿を読み直した長坂はその出来が全く気に入らず、全てを破り捨ててゼロから書き直す。結局小説が完成したのは締切り消印当日の1989年1月31日であった。 無事『浅草エノケン一座の嵐』は第35回の江戸川乱歩賞を受賞したが、その選評はあまりに辛辣なものが多く問題となった。批判の是非はともかく、ここまで貶しておいて授賞し、同じ本にそれを収録するのは失礼ではないかとの指摘もあり、その後『エノケン』を最後に単行本への乱歩賞受賞作の選評掲載は10年間に亘ってとりやめとなった。長坂も比較的好意的な選評を出した北方謙三以外の委員達にインタビューで「営業妨害だ」「ケチだけつけるならそんな作品に一票入れるなといいたい」「あんな選評で選んでりゃ賞の権威なんて無い」と怒りを爆発させ、乱歩賞受賞のスピーチで「作者の私は受賞を確信していましたが、もっとも意外だったのは選考委員の人たちだったようです」と挨拶するなどその関係は最悪なものになった。 売り上げは単行本5万5千部、文庫は9万部。売り上げの少なさや小説のギャラの少なさ(テレビシナリオの10分の1以下であったという)にショックを受けた長坂は、上記のトラブルもあり、しばらくの間小説執筆から距離を置くことになった。乱歩賞作家が通常書き下ろす受賞第一作長編も結局出版はされなかった。以降、推理小説はほとんど書いていない。
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