水戸藩の河川開発とは? わかりやすく解説

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水戸藩の河川開発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 00:53 UTC 版)

那珂川」の記事における「水戸藩の河川開発」の解説

那珂川利水本格的に開発されたのは江戸時代のことである。1590年天正18年佐竹義宣常陸全域平定し豊臣秀吉より常陸一国54万石安堵された。義宣は水戸城本拠据え領国経営図った関ヶ原の戦いにおいて首鼠両端持したために(義宣は西軍石田方に加担したかったが、父・佐竹義重東軍徳川方への加担強硬に主張し西軍上杉氏密約結んでいたにも拘らず徳川軍家臣派遣1602年慶長7年出羽久保田(後の秋田市)に減転封となった徳川家康水戸を対伊達政宗要衝として重要視し、5男武田信吉10徳川頼宣11徳川頼房相次いで水戸藩主据えて仙道筋の防衛を担わせた。このため水戸急速に城下町発展するが、城下千波湖現在の2倍の大きさ水害被害を受けやすかったこのため家康関東郡代伊奈忠次命じて洪水調節かんがい目的とした用水路建設命じた。これが備前堀1610年慶長15年)に完成し功績称え伊奈備前守忠次の名を冠した総延長10km用水路で、これにより那珂川南岸かんがいを図ることができるようになった一方那珂川北岸那珂郡河岸段丘上の水不足慢性化しており、この地域かんがい課題となっていた。1656年明暦2年)頼房は、永田右衛門対し那珂川北岸用水路開削命じた。茂右衛門那珂郡下江戸(現・那珂市下江戸)において那珂川から取水現在のひたちなか市武田に至る延長30km用水路建設した。これが小場江用水路であり、現在は常陸大宮市三美にある小場江頭首工から取水しているが、完成350年経過した現在でも地域重要な農業用水源として利用されている。 水戸藩第三藩主徳川綱条の代には涸沼北浦を結ぶ運河整備計画された。水戸江戸を結ぶ流通発展させることを目的に、鹿島灘迂回せずに直接北浦から利根川経て江戸物資輸送させることで、財政難にあえぐ水戸藩財政好転させることを目的としていた。綱条は浪人である松浪勘十郎を登用し支出削減年貢増徴による収入増加を図ると共に、「勘十郎堀」と呼ばれる運河涸沼北浦の間に建設し流通航路確保図ろうとした。この事業1706年宝永6年)に着手されたが、農民負担余りにも大きかった勘十郎の政策はたちまち大規模な百姓一揆誘発し事業頓挫1709年宝永9年)に責任を取らされた勘十郎は水戸藩追放された。

※この「水戸藩の河川開発」の解説は、「那珂川」の解説の一部です。
「水戸藩の河川開発」を含む「那珂川」の記事については、「那珂川」の概要を参照ください。

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