水戸藩の河川開発
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那珂川の利水が本格的に開発されたのは江戸時代のことである。1590年(天正18年)佐竹義宣は常陸全域を平定し、豊臣秀吉より常陸一国54万石を安堵された。義宣は水戸城を本拠に据え、領国経営を図ったが関ヶ原の戦いにおいて首鼠両端を持したために(義宣は西軍石田方に加担したかったが、父・佐竹義重が東軍徳川方への加担を強硬に主張し、西軍上杉氏と密約を結んでいたにも拘らず徳川軍に家臣を派遣)1602年(慶長7年)出羽久保田(後の秋田市)に減転封となった。 徳川家康は水戸を対伊達政宗の要衝として重要視し、5男武田信吉、10男徳川頼宣、11男徳川頼房を相次いで水戸藩主に据えて仙道筋の防衛を担わせた。このため水戸は急速に城下町が発展するが、城下は千波湖が現在の2倍の大きさで水害の被害を受けやすかった。このため家康は関東郡代・伊奈忠次に命じて洪水調節とかんがいを目的とした用水路の建設を命じた。これが備前堀で1610年(慶長15年)に完成し、功績を称え伊奈備前守忠次の名を冠した。総延長10kmの用水路で、これにより那珂川南岸のかんがいを図ることができるようになった。 一方、那珂川北岸の那珂郡は河岸段丘上の水不足が慢性化しており、この地域のかんがいも課題となっていた。1656年(明暦2年)頼房は、永田茂右衛門に対し那珂川北岸に用水路の開削を命じた。茂右衛門は那珂郡下江戸(現・那珂市下江戸)において那珂川から取水、現在のひたちなか市武田に至る延長約30kmの用水路を建設した。これが小場江用水路であり、現在は常陸大宮市三美にある小場江頭首工から取水しているが、完成後350年を経過した現在でも地域の重要な農業用水源として利用されている。 水戸藩第三代藩主・徳川綱条の代には涸沼と北浦を結ぶ運河の整備が計画された。水戸と江戸を結ぶ流通を発展させることを目的に、鹿島灘を迂回せずに直接北浦から利根川を経て江戸に物資を輸送させることで、財政難にあえぐ水戸藩の財政を好転させることを目的としていた。綱条は浪人である松浪勘十郎を登用し、支出削減と年貢増徴による収入増加を図ると共に、「勘十郎堀」と呼ばれる運河を涸沼と北浦の間に建設し、流通航路確保を図ろうとした。この事業は1706年(宝永6年)に着手されたが、農民の負担が余りにも大きかった勘十郎の政策はたちまち大規模な百姓一揆を誘発し事業は頓挫。1709年(宝永9年)に責任を取らされた勘十郎は水戸藩を追放された。
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