水戸藩の楠社創建計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 12:03 UTC 版)
先に詳述したように、水戸藩は二代藩主徳川光圀の代に、摂津坂本村湊川に楠木正成墓碑を造立した主催者であった。『大日本史』編纂などを通じて楠公の顕彰・評価の先鋒を担ってきた水戸藩としては、楠社創建を見過ごすわけにはいかなかった。 1868年(明治元年)閏4月19日水戸藩は楠社創建のことを同藩に一任するように建白した。同年6月15日、社殿設計図などを調査して上申することを命じた。ただ同日、既に兵庫裁判所の設計案を採用することを決めており、奇妙な話であるが、おそらくは水戸藩に命じたのは、兵庫案と比較して参考にするためであり、また水戸藩に対する顔立ての意味もあったのだろう。 しかし、同年8月28日設計案を提出するとともに、水戸藩がいかに楠公碑と深い関わりがあるかを主張して、創建のことを全て任せるように再び請願するに及ぶと、政府内でも水戸藩に賛同を示す者も出てきた。既に兵庫裁判所はその案に基づいて、作業を始めていたが、政府はその一時中断を伝えるまでに至った。 しかし翌年5月に再び同様の請願をするが、既に尾張藩の建白で見たように、やはり神社は国家の宗祀であるという原則に則り、藩独自の神社創建は認められなかった。
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