民族と宗教の多様化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 07:06 UTC 版)
「チャールストン (サウスカロライナ州)」の記事における「民族と宗教の多様化」の解説
初期の開拓者は主にイングランドから来ていたが、植民地時代のチャールストンは民族と宗教が混在してもいた。植民地時代はボストンと姉妹都市を結び、資産のある市民の中には夏をボストンで、冬はチャールストンで過ごす者もいた。バミューダやカリブ海諸島との交易も盛んで、これらの地域から移り住む者もいた。フランス人、スコットランド人、アイルランド人、それにドイツ人が発展する海港市に移民してきており、多くのプロテスタント会派の信者、カトリック教徒、ユダヤ教徒がいた。スペイン系ユダヤ人が多く移住してきたので、19世紀の初めから1830年頃まで、北アメリカで最大かつ最も富んだユダヤ人社会を形成した。1762年に造られたユダヤ人のカミング・ストリート墓地は、彼らの長期に渡る社会が存在したことの証である。最初のイングランド国教会の教会であるセント・フィリップス・エピスコパル教会は1682年に建てられたが、火事で焼け、現在ある場所に移された。奴隷達も人口に占める比率が高かったが、市内の宗教的社会では活発に活動した。自由黒人の市民と奴隷達が、オールド・ベセル合同メソジスト教会を1797年に建てる際に貢献し、1791年建立のエマヌエル・アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会の会派は自由人および奴隷のアフリカ系アメリカ人でのみ構成された宗教集団から派生している。この教会は南部で最古のアフリカン・メソジスト・エピスコパル教会であり、アメリカ合衆国全体でも2番目に古いものである。なお、アメリカで最初の博物館が1773年1月12日に開館された。 18世紀半ばからは、大量の移民がカロライナの内陸部に入った。チャールストンを経由して入植した者もいれば、北部のバージニア、メリーランド、ペンシルベニアから入る者も多かった。内陸部の人口は海岸地方のそれを上回るほどになった。これらの人々をチャールストン市民は多くの意味で洗練されていないし、関心の対象が異なる者と見ていたので、幾世代も経て内陸部の民とチャールストンのエリート層との間に軋轢が生ずるようになった。
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