比嘉名護市長の受入れ、辞意表明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 05:23 UTC 版)
「普天間基地移設問題」の記事における「比嘉名護市長の受入れ、辞意表明」の解説
比嘉は元々住民投票の結果に拘泥するつもりはなかったが、結果を見て「そんなに負けてはいない」と思ったという。そして投票から2日余りが過ぎた12月24日早朝、比嘉は自宅に支持団体の副会長をしていた仲泊弘次を密かに呼び、「大田知事に会って、『知事が受け入れに対して、賛成だろうと反対だろうと、どちらの考えでもかまわない。受け入れの責任は、自分が一切もってかまわないから。その際、表明の席上に、ただ隣に腰掛けてくれていればいい。泥は地元・名護市長がかぶるから』という話をしたい」と発言した。この時点で辞意については言明していなかったが、杯を交わした後、同じく自宅に呼んでいた助役の岸本建男を前に「ここにいる岸本建男を、私の後継者として次の市長に立ててくれないか。」と希望し、仲泊がそれに了解した後、比嘉はマスコミの包囲を避けて上京し、官邸に向かった。 辞意を橋本に伝えた際、橋本は同じく上京していた知事の大田と引き合わせようとしたが、大田は「県庁や、支持政党などと話し合いをやらないといけない」と述べ、又吉辰雄政策調整官に手を引かれて退室し、会おうとしなかった。これを目の当たりにした橋本は怒ったが、そこへ比嘉は正式に辞意を決意した旨を伝え、「義理むすからん ありん捨らららん 思案てる橋の 渡りぐりしや」という琉歌を渡した。橋本は歌の意味を知ると涙を流し、比嘉が名護市の振興だけでなく、本島北部、離島を含めての振興策を閣議決定するように希望すると、「分かった」と答えた。その場に居た自民党幹事長代理の野中広務は、比嘉から市長任期が8ヶ月残っていることを聞き出すと慰留したが、比嘉は「私も、日本の海軍にいましたから、責任の取り方は知っています。しかし必ず意中の人を立てて選挙には勝ちます」と固辞した。 こうして12月25日、比嘉は、海上ヘリポート基地受け容れと市長職の辞任を同時に表明した。 比嘉の辞任を受けて1998年2月8日を投票日として市長選挙が行われた。岸本は予定通り立候補した。ただし公約では、岸本は基地移設につき「沖縄県知事の決定に従う」とし、受け容れを明言していたわけではなかった。選挙終盤の2月6日には、知事の大田が住民投票結果を理由として反対の姿勢を表明した。岸本陣営に居た比嘉は「どうせ知事は反対するんだな」と見通しを立てており、管子の「備えをもって時をはかり、時をはかって事を起こす」故知に習い、ヤンバルへの愛郷心から「振興策を取ろう」という方針で支持者の女性を集めて市内をデモ行進して盛り上げを図った。選挙の結果、岸本は市長に当選した。
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