母性保護運動・母子福祉活動とは? わかりやすく解説

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母性保護運動・母子福祉活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 03:12 UTC 版)

山田わか」の記事における「母性保護運動・母子福祉活動」の解説

1916年大正5年2月に「青鞜」が廃刊となり、それまでの「青鞜メンバーはある者は母性保護運動に、ある者は婦人参政権運動に、そしてまたある者は社会主義的婦人運動へとおのおのが自身主張した方向へとその舵を取っていったのである母性保護論争1918年大正7年)、与謝野晶子平塚らいてう山田わか山川菊栄参加し、約1年に亘り繰り広げられ論争四つ巴となって展開して行った。その争点は「女性育児就労両立できるか」にあり、晶子両立可能とし、母子対する国の経済的保護必要ないとした。らいてう、わかは両立不可能とし国の保護の必要を訴えた。この母性保護論争発端にわかは1934年昭和9年)、母性保護連盟初代委員長になった。この母性保護連盟における活動はわかの社会事業への船出となり、委員長就任翌年社団法人「母を護るの会」を立ち上げるその後母子保護公布1937年昭和12年))の2年後1939年昭和14年)には困窮母子支える「幡ヶ谷母子寮」と「幡ヶ谷保育園」を完成させた。1945年昭和20年)の東京大空襲施設自宅も灰になり、街には浮浪児売春婦があふれ大きな社会問題になっていた。そんな折、連合軍総司令部は「公娼制度廃止」の方針示したこれを期にわかは、1947年昭和22年)、婦人保護施設幡ヶ谷女子学園」の名で施設再開した。なお、戦時日本ドイツナチズムなどを礼賛するなど、重大な問題残した1952年昭和27年)「母を護るの会」の看板が「婦人福祉会」になった後も理事長にあった1957年昭和32年9月その生涯閉じた享年77歳

※この「母性保護運動・母子福祉活動」の解説は、「山田わか」の解説の一部です。
「母性保護運動・母子福祉活動」を含む「山田わか」の記事については、「山田わか」の概要を参照ください。

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