母性保護運動・母子福祉活動
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「山田わか」の記事における「母性保護運動・母子福祉活動」の解説
1916年(大正5年)2月に「青鞜」が廃刊となり、それまでの「青鞜」メンバーはある者は母性保護運動に、ある者は婦人参政権運動に、そしてまたある者は社会主義的婦人運動へとおのおのが自身の主張した方向へとその舵を取っていったのである。母性保護論争は1918年(大正7年)、与謝野晶子、平塚らいてう、山田わか、山川菊栄が参加し、約1年に亘り繰り広げられ、論争は四つ巴となって展開して行った。その争点は「女性の育児と就労は両立できるか」にあり、晶子は両立可能とし、母子に対する国の経済的保護は必要ないとした。らいてう、わかは両立は不可能とし国の保護の必要を訴えた。この母性保護論争を発端にわかは1934年(昭和9年)、母性保護連盟の初代委員長になった。この母性保護連盟における活動はわかの社会事業への船出となり、委員長就任の翌年、社団法人「母を護るの会」を立ち上げる。 その後、母子保護法公布(1937年(昭和12年))の2年後の1939年(昭和14年)には困窮母子を支える「幡ヶ谷母子寮」と「幡ヶ谷保育園」を完成させた。1945年(昭和20年)の東京大空襲で施設も自宅も灰になり、街には浮浪児や売春婦があふれ大きな社会問題になっていた。そんな折、連合軍総司令部は「公娼制度廃止」の方針を示した。これを期にわかは、1947年(昭和22年)、婦人保護施設「幡ヶ谷女子学園」の名で施設を再開した。なお、戦時の日本やドイツのナチズムなどを礼賛するなど、重大な問題を残した。1952年(昭和27年)「母を護るの会」の看板が「婦人福祉会」になった後も理事長職にあったが1957年(昭和32年)9月にその生涯を閉じた。享年77歳。
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