死のタブー視への挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/27 20:04 UTC 版)
現代社会は死を捨象したところに存在し、死をタブー視する社会である。近代以前において死は最も重大な思索の対象であったが、近代に成立した政治思想・社会思想は人間生活から死を追放した。具体的には近代政治理論においては近代国家の使命を、人々の「横死への恐怖」から救い出すものであるとし、近代国家は死なない永生的擬似生命体として不死の存在とされた。近代国家は国民という一つの永続的で集合的な人格に立脚するものであり、したがって近代以前の国家と異なり、観念上近代国家が「死ぬ」ことはあり得ない。同様に「経済人」(homo economicus)としての人間、なかんずくその代表である企業は、生活力旺盛な壮青年のみで構成された死のない集団であり、生のみによって成り立つ世界である。 現代社会において一般化している単婚小家族もこの傾向を深めている。単婚小家族とは中年の男女と子供で成り立つ家族形態であり、子供の成長過程において最も身近な家族の死に直面する機会は成人するまでほぼないと言ってよい。それに対し前近代においては平均寿命が現代より短く、なおかつ家族構成は二世代にわたる形態が一般的であり、普段身近に接している家族の死は数年に一度の割合で訪れる身近なものであった。 死生学は死をタブー視し、死を非日常的なものとしてこれを遠ざけ、そのために死を必要以上に悲惨なものと考え、恐れる現代社会に対して、死に対する心構えという観点から改めて生の価値を問い直そうという試みである。それは死を自分の将来にある必然として見据えることにより、現在の自分の生において何が大切であるのかということを考える営みを提唱するものである。
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