歴史理解において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 21:55 UTC 版)
自由主義神学を中心に、その思想に対する否定的評価も見られる。ギュンター・ボルンカムは「この手紙が弁護している終末論は、どちらかと言えば、神学的に消化することをしていない、正統的教説のひとかけらの様相を呈しており、この意味内容の点でも(略)ずれていて、もはや生ける信仰を証ししてはいない」と評した。ヴィリー・マルクスセンは「著者はまったく敵対者とかみ合わない話をしているだけでなく、自分自身の考えの中で終末論と歴史とを互いに関連付けることにも成功していない」と評した。塚本虎二は諸論者の評価から、「新約中最も新しく、また最も正典たる資格なし」、(第一ペトロ書が生花なら)「本書は造花」、「他書からの引用を除けば何が残るか」といった酷評を紹介していた。小塩力も、岩波新書の概説書において、第一ペトロ書に比べて「信仰思想的な価値」がやや劣るものとして、第二ペトロ書の概説は割愛していた。 他方で、この手紙は「来臨」概念の過渡期を示している。というのは、もともと来臨とは将来のみを対象とするものであったが、のちに最初の来臨と未来の来臨(つまり再臨)が区別される。しかし、この手紙は来臨を現代のようにイエスの受肉と解釈せずに山上の変容と位置づけているからである。小林稔は、当時の論争と正典化の一段階に関する歴史的証言として評価している。小林はまた、かつて老いていく肉体が人の弱さの象徴であると認識されており、再臨における救済がその肉体を伴う霊肉不可分の復活とされていることを踏まえ、第二ペトロ書が強調する再臨の思想からは「弱者を切り捨てない」という現代に繋がるメッセージも読み取りうると指摘した。
※この「歴史理解において」の解説は、「ペトロの手紙二」の解説の一部です。
「歴史理解において」を含む「ペトロの手紙二」の記事については、「ペトロの手紙二」の概要を参照ください。
- 歴史理解においてのページへのリンク