武者旅行第二期
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1960年の訪米を境にして世界武者旅行の第二期とされる。欧州でも活動したが、アメリカでも講演会やキャンプを開催し、ニューヨークの新聞『ヘラルド・トリビューン』に如一によるケネディ大統領暗殺の予言などが取り上げられるということもあった。 1960年代初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴランはパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換にシフトすることになる。1964年6月21日、桜沢は、自ら考案の装置にて、Na→Kの低温低圧原子核転換の成功を述べている(生物学的元素転換)。1962年のキューバ危機の際には、核戦争が起こればニューヨークは灰燼と化すと予言し、ニューヨークの会員にカルフォルニアの辺地チコ市への疎開を勧め、これを「20世紀のノアの箱舟」と称し、正食法に生きる人のみが核戦争から生き延びると断言、信じた人たちはキャラバンを組んでチコ市に向かった。 1962年にはベルギーへと行き、イギリスのロンドンでも初の大講演を実施し、ドイツのコローヌ市でクナイプ博士の健康協会にて講演し、ミュンヘンで講演し、スウェーデンのストックホルムにてその地のマクロビオティック協会のために講演会を行い、フランス、アメリカでキャンプによる講習と多忙に世界を飛び回っていた。 後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治、その後身である戦後の真生活協会(現在の日本CI協会)からは、久司道夫、大森英桜、岡田周三、菊池富美雄(ポルトガル語版)らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。 1964年の『健康の七大条件』では、それまでの六大条件としていたものに最も重要な「嘘をつかない」を追加した。 1966年には『世界恒久平和案』を発表し、全世界の支部へと発送された。食正しければ人もまた正しいの結論に達し、外部からの教育は不要であるとし、自らによる健康の制御「正食」を教育の第一とし、五大宗教は東洋で生まれており第二に形而上が大事であり、欧米の教育は形而下「目に見える世界」だけだということである。同年4月24日5時半、死亡する。死因は心筋梗塞。 死後にも『ジャックとミチ』などパリでの著書が翻訳されている。
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