欧州にて柔道指導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/06 00:30 UTC 版)
GHQの要請によりアメリカ兵にも柔道を指導した平野は、その縁で1952年に皇宮警察師範を辞して欧州に柔道普及の旅へ出る事になった。3月5日に到着した最初の訪問国であるオランダでは欧州アマチュア柔道連盟の会長を務めていたドクター・シュッターをはじめ柔道関係者から歓迎を受けたものの、フランスでは諸般のトラブルにより国外退去処分となり、トラックの荷台に隠れて再びオランダに入国(いわゆる密入国)する憂き目に。結局、ドクター・シュッターの口利きで西ドイツのケルン大学に柔道師範として迎えられる事となった。 以来13年に渡り欧州各国で柔道指導を行い、当初は毎日のように道場生を相手に20人掛や30人掛、中には50人掛を実演している。1954年にはドイツのマンハイムで105人を抜いたほか、1955年にはオランダのアムステルダムで、レスリングのフリースタイルで4年間欧州チャンピオンを保持したピーター・アーツ(アントン・ヘーシンクのレスリング時代の師でもある)が道場破りに現れ、これを返り討ちにしている。また、同じく異種格闘技戦となったボクシングの選手を倒した事もあった。平野が日記に書き留めた記録では1958年までの6年間で4,000人と試合をして遂に負け知らずだった事が確認でき、身長165.5cm・体重75kgという小躯ながら成し遂げたこれら偉業は、主に南米において異種格闘技戦を繰り返した柔道家・前田光世にあやかって“欧州版コンデ・コマ”との呼び声も高い。
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