横穴墓発見と発掘の経緯とは? わかりやすく解説

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横穴墓発見と発掘の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 23:26 UTC 版)

出山横穴墓群」の記事における「横穴墓発見と発掘の経緯」の解説

東京都三鷹市から調布市にかけての野川北岸沿いにある河岸段丘国分寺崖線には、7世紀半ば8世紀初めにかけて造営され多く横穴墓がある。これら横穴墓全部7つ横穴墓群分けられており、出山横穴墓群7つ横穴墓群うちのひとつである。なお7つある横穴墓群中間部付近台地上に天文台構内古墳があり、築造時期もほぼ同時と見られることから、天文台構内古墳7つ横穴墓群頂点に立つ首長葬ったものと考えられている。 出山横穴墓群1884年明治17年)、『武蔵野叢誌』という当時発行されていた雑誌に、出山横穴墓思われる横穴墓発見されたとの記事掲載されている。その際出土した人骨近所にある龍源寺埋葬され、「穴仏」「横穴古墳供養碑」という二基の石碑建てられた。また出山横穴墓群6号墓大正時代から開口していたとみられ、横穴墓であることがよくわからなかった当時出山古墳呼ばれていた。出山横穴墓群6号墓1948年昭和23年)頃発掘調査が行われ、土器出土したとされる詳細不明である。 出山横穴墓群三鷹市内で最初に確認され横穴墓群として、正式に記録上に現れるのは1963年昭和38年)のことである。発掘調査1978年昭和53年)から開始され、まず玄室一部のみが残存する出山横穴墓群1号墓発掘が行われた。1984年昭和59年)には近隣の学校建設に伴う道路整備中に5基の横穴墓発見され、うち2号墓3号墓4号墓一部調査され5号墓6号墓については位置測量が行われた。 同じく1984年には地元住民からの情報によって7号墳確認された。また同じ住民1979年昭和54年4月、筍の採集中に偶然出山横穴墓群8号墓を発見していた。1993年平成5年2月三鷹市教育委員会横穴墓題材とした文化財展示会計画し、その一環として横穴墓発掘発掘した横穴墓見学会計画した三鷹市内の横穴墓の中から見学しやすさ等の問題考慮した結果出山横穴墓群8号墓を発掘することとして、1993年2月から5月にかけて発掘調査が行われた。 発掘調査の成果により、1994年3月には出山横穴墓群8号墓は東京都史跡となり、1994年10月から翌1995年平氏8年1月にかけて保存整備向けて地中レーダー調査ならびに出山横穴墓群8号墓の墓前域の発掘が行われた。この時のレーダー調査によって、第9号墓と第10号墓が発見された。続いて1995年9月から10月にかけて、未発掘の墓前域の調査目的とした出山横穴墓群8号墓の第三次発掘調査が行われた。

※この「横穴墓発見と発掘の経緯」の解説は、「出山横穴墓群」の解説の一部です。
「横穴墓発見と発掘の経緯」を含む「出山横穴墓群」の記事については、「出山横穴墓群」の概要を参照ください。

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