横手盆地の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 03:06 UTC 版)
伝説の舞台となる横手盆地は、雄物川とその支流がつくったいくつもの沖積地からなる、面積は693.59平方キロメートルで、東京23区や琵琶湖の面積に匹敵する広大かつほぼ低平な盆地である。秋田県南東部から北西方向に流れる雄物川は、秋田市雄和女米木、雄和左手子付近の狭搾部では両側から山地が迫る間を大きく蛇行し、日本海へと流れ下っている。 第三紀の末頃から、現在の東北地方にあたる地域に、太平洋プレートの西進を原因とする東西方向からの圧縮力が加わるようになった。そのため褶曲と逆断層が交互に生じ、縦にしわが並ぶように低地と高地が交互に現れた。秋田県から岩手県にかけて、低地(秋田平野)、山地(出羽山地)、低地(横手盆地)、山地(奥羽山脈)、低地(北上盆地)、山地(北上山地)という地形の配置となった。 第四紀になると、山地は圧縮力によりさらに隆起し、低地はさらに低くなってそこに河川が大量の土砂を運んだため、厚い堆積物に覆われた盆地が発達していった。横手盆地の奥羽山脈沿いには現状でもいくつかの扇状地が形成されているが、横手市平鹿町上吉田から同市大雄阿気を経て大仙市角間川に至る広範囲にわたって緩勾配ながら扇状地状の様相を呈しており、これを小田島宏は「古雄物川扇状地」と呼称している。また、横手盆地の中央部、下吉田、田村の両地区の地表近くには、そこが湿地帯であったことを示す泥炭層が分布しており、最も新しい泥炭層は完新世(約5,000年前)まで下るという分析結果が出ている。 約1万年前、完新世に入ると、それまで続いていた氷期が終わり、気温の上昇により縄文海進が起こった。縄文海進の最も進んだ縄文時代早期末葉から前期前葉にかけては、海面の高さは現在よりも3メートルないし5メートル前後高かったと考えられる。河川の水量も多かったとみられ、とくに勾配の緩やかな横手盆地は蛇行帯も広く、現在、盆地における最低位段丘とされる標高差数メートルの河岸段丘も、この時期あるいはこれに相前後して形成された可能性がある。雄物川は盆地内でその流路を幾度か変え、やがて奥羽山脈側(東側)から支流の河川が土砂を運び現成扇状地ないし沖積地を発達させたことで、流路を徐々に西へ移動させていったものと推定される。
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