標本の入手まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:29 UTC 版)
「イリオモテヤマネコ」の記事における「標本の入手まで」の解説
1962年にこれらの情報を基に琉球大学の高良鉄夫が幼獣を捕獲したが、成獣の標本は入手できなかった。1964年には早稲田大学探検部の高野凱夫がヤマネコが生息しているという噂を今泉らに伝えた。沖縄の本土復帰に先立つ1965年2月、八重山を訪れることになった動物文学作家の戸川幸夫が、那覇市で琉球新報の記者から「西表島ではヤマネコがいるという噂がある」ことを聞いた。戸川はこれをよくあるヤマイヌ(ニホンオオカミ)発見談のようなものであり、飼い猫が野生化したものであると考えたが、知人であった高良に相談したところ、彼はその噂を知っており、しかも一定の信頼性が感じられることを説明した上で、戸川に証拠集めを依頼した。戸川は当時担当していた記事の取材を兼ね西表島に渡り、ヤマネコの情報の入手や標本の収集に奔走した。しかし西表島では食糧不足のため捕獲されたヤマネコは焼いて汁にして食べるか、捨てていたためにヤマネコの標本の入手は容易ではなかった。その後、島の西部にある網取部落を訪れた際に、高良に師事していた中学校の教師が、イノシシ用の罠で捕獲されたヤマネコの死体を入手し、皮を高良に送り、その他は埋めたことを聞きつけ、戸川らはこれを掘り起こし、頭骨を入手した。また網取部落付近で手に入れた2個の糞を発見している。同時に、浦内川沿いにあるイナバ部落の漁師が皮を保管しており、これも手に入れた。この3つの標本を手に再び琉球大学の高良のもとを訪れ、網取部落の中学校教師が高良に送ったヤマネコの皮を入手し、これらの標本を国立科学博物館の今泉のもとに送り、日本哺乳動物学会に鑑定を依頼した。1965年3月14日に日本哺乳動物学会において、これらの標本の鑑定がなされた。鑑定の結果、新種もしくは新亜種らしいということにはなったが、標本が足りなく、完全な標本もしくは生体の入手が求められた。この発表の後も、哺乳動物学会員の中には、単なる奇形であるか、もしくは過去に船乗りが海外産のヤマネコを西表島に放したものであると考えるものもいた。
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