桂三木助襲名後
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「桂三木助 (4代目)」の記事における「桂三木助襲名後」の解説
翌年(1985年)に26人抜きで真打に昇進、四代目桂三木助を襲名。古今亭志ん輔、七代目桂才賀、林家かん平、入船亭扇遊、柳家小ゑん、林家時蔵、林家らぶ平、柳家三寿、春風亭正朝と同時昇進で、そのうち古今亭志ん輔とは鈴本演芸場九月下席にて一足先に真打披露を行った。 1990年(平成2年)7月、広告デザイナーの女性と盛大な結婚式を挙げて海外に新婚旅行に出かけたが、帰国直後に離婚。「成田離婚」と騒がれたが、後に未入籍であったことが判明する。この騒動直後の1990年10月、博品館劇場での「春風亭小朝 連続三十日奮闘公演」で、全期間小朝の前の出番で落語を演じきり、小朝とともに注目を集めた。 1993年(平成5年)の秋に入院した三木助は、重度の胃潰瘍のために胃の4分の3を摘出する手術を行った。この頃から、タレントとしての仕事をほぼなくし、落語家の仕事に専念するようになる。その理由として、胃の摘出によって体力的に衰えを自覚したことにあることを、演芸専門誌のインタビューで述べている。 さらに同年、自分の師匠の孫にあたる弟弟子の柳家小緑の戦後史上最年少での真打昇進が決定となり、翌年の1994年には小緑改め柳家花緑の真打昇進披露興行が開催された。それらの影響を受けて落語に対する姿勢が変わり、春風亭小朝、林家こぶ平、春風亭昇太らとともに江戸落語の若手発掘・自身も含めた中堅世代のスキルアップのために、数々の寄席や落語関連のイベントで奔走することとなる。 同年の9月には「三木助ひとり会スペシャル」という昼夜の独演会を開催し、昼の部には立川志の輔と昇太、夜の部には桂小米朝と立川談志を招くなど、主役である自分が食われかねないゲストとも共演した。また、三木助は元来上方の名跡である事から、桂米朝にも幾つか噺を教わり精進を重ねた。父がかつて芸術祭賞を受賞した芸術祭に対しても意欲を示し、1996年(平成8年)は不参加であったものの、1997年(平成9年)には演芸部門優秀賞を受賞した。さらに吉川潮の協力のもと、父の十八番であった『芝浜』も習得しようと励んでいた。
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