栗原俊夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/15 01:38 UTC 版)
栗原 俊夫
くりはら/くりばら としお
|
|
---|---|
![]() |
|
生年月日 | 1909年5月8日 |
出生地 | 群馬県多野郡小野村(現・藤岡市) |
没年月日 | 1989年1月30日(79歳没) |
出身校 | 京都帝国大学法学部 |
所属政党 | 日本社会党 |
称号 | 勲二等旭日重光章 正四位 |
配偶者 | 中西みち |
|
|
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1955年 - 1966年 |
|
|
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1974年 - 1980年 |
|
|
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1947年4月 - 1955年1月 |
群馬県多野郡小野村長
|
|
在任期間 | 1947年4月 - 1949年8月 |
栗原 俊夫(くりはら[1][2]/くりばら[3][4][5] としお、1909年〈明治42年〉5月8日[1][4][5] - 1989年〈平成元年〉1月30日[5][2])は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、群馬県議会議員(2期)、群馬県多野郡小野村長。日本社会党所属。囲碁4段、将棋3段、柔道3段[4]。妻は1932年のロサンゼルスオリンピックに陸上競技80メートルハードルで出場した中西みち[5]。
経歴
1909年(明治42年)、群馬県多野郡小野村(現・藤岡市)の農家に、栗原徳次郎・タカの長男として生まれる[3][1][5]。群馬県立藤岡中学校、旧制静岡高等学校を経て1932年(昭和7年)京都帝国大学法学部を卒業[3][4][5]。
一時天龍・大ノ里の新興力士団に勤め[5]、その後大阪時事新報社に入社し経済記者として活動した[1]。1944年(昭和19年)に疎開帰郷し[1]、戦後に小野村農業会専務理事、さらに組合長を務めた[5]。
1947年(昭和22年)4月に小野村長に当選、1949年(昭和24年)8月まで務める[3][1]。1947年(昭和22年)4月に群馬県議会議員にも当選、1955年(昭和30年)1月まで2期在任した[3][5]。1955年第27回衆議院議員総選挙に日本社会党から立候補、当選を果たす[3][1][5]。以後4期務める[3][4][5][2]。1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙では次点で落選。
1968年(昭和43年)と1972年(昭和47年)の群馬県知事選挙にも出馬したが[1]現職の神田坤六に敗れている。
1974年(昭和49年)第10回参議院議員通常選挙に出馬、当選[1][4][5]。1期務め、参議院逓信委員長を経験[1][5]。
産業振興審議会委員[要出典]、日本社会党中央執行委員[3][5]、全日本農民組合連合会副会長[4]、全国日中友好協会副会長[1][4][2]などを歴任した。
1979年(昭和54年)、勲二等旭日重光章受章[5][4][2]。
1989年(平成元年)1月30日心不全のため死去、79歳[5]。死没日をもって正四位に叙される[6]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年11月1日、178頁。doi:10.11501/12189010。(
要登録)
- ^ a b c d e 新訂 政治家人名事典 明治~昭和『栗原俊夫』 - コトバンク
- ^ a b c d e f g h 群馬県議会図書室 編『群馬県議会史』 別巻、群馬県議会、1966年12月15日、573頁。doi:10.11501/3025553。(
要登録)
- ^ a b c d e f g h i 上毛新聞社出版局 編『群馬県人名鑑』上毛新聞社、1986年11月25日、187頁。doi:10.11501/12192835。(
要登録)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 群馬県議会事務局 編『群馬県議会史』 別巻《群馬県議会議員名鑑 現代編》、群馬県議会〈第一次改訂版〉、1993年12月1日、91頁。doi:10.11501/9639872。(
要登録)
- ^ 『官報』第24号5-6頁 平成元年2月8日号
関連項目
- 山口鶴男 - 同じ選挙区で社会党から立候補。栗原が左派を代表していたのに対し山口が右派を代表していた。
議会 | ||
---|---|---|
先代 神沢浄 |
![]() 1977年 - 1978年 |
次代 赤桐操 |
固有名詞の分類
- 栗原俊夫のページへのリンク