しばたはなもり 【柴田花守】
柴田花守
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柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2月21日〉- 1890年〈明治23年〉7月11日)は、幕末の武士、宗教家(神道家)。富士講一派の不二道の10代教主。教派神道である実行教の初代菅長。
生涯
文化6年(1809年)1月8日、佐賀藩支藩の小城藩藩士・柴田礼助の子として、肥後国小城郡桜岡東子路の鍋島大学邸に生まれる。6歳にして藩校興譲館 (小城藩) に入学し、元服後、藩主の命により西洋医学の伝習生として長崎に留学。シーボルトの高弟で、眼科医の高良斉に師事。その後、病を得て帰宅したためにシーボルト事件に巻き込まれることはなかったが、師の良斉の依頼で日本の動植物の模写をシーボルトに渡している[1]。18歳の折、不二道の小谷三志が長崎に布教に来ると、入信して師事する傍ら、神道・仏教・儒教を学び、国学・蘭学・詩歌・書画も修めた。幕末の志士とも交わり、長崎丸山の料亭花月では端唄『春雨』を作詞し当時の憂国の心を世に残した[2]。天保2年(1831年)、23歳のときに中島広足について神典歌道を学ぶ一方で、禅学も学ぶ。平田篤胤の教えにも私淑した。嘉永元年(1847年)2月19日、花守を含め不二道の講仲間、富士講の先達・行者、浅間神社の神職ら約10名の関係者が取り調べを受ける[3]。明治2年(1869年)に藩主鍋島直虎の命を受けて小城に帰り皇典を藩士子弟に講じた。明治3年(1870年)、62歳のときに不二教法の改革を唱え各地を巡講し、明治6年(1873年)に豊国神社神主となる[4]。
明治11年(1878年)、富士信仰を神道化して実行社を組織する(神道十三派の一つ)。明治15年(1882年)6月3日、神道実行派として一派独立し、74歳で初代管長に就任する。明治17年(1884年)10月30日、実行教初代管長に就任。本庁を東京市牛込区東五軒町に置き、山岳信仰にとどまらず、我国固有の惟神の道を教えのうちに展開し布教活動を本格化した。明治23年(1890年)7月11日、逝去。享年82[5]。墓所は青山霊園。小城市では、毎年4月に花守を偲び春雨まつりが行われる。柴田礼一が菅長を継ぐ。納富介次郎は次男。
著書
- 『開化古徴』
脚注
- ^ シーボルト記念館には、シーボルト製作、柴田花守旧蔵の眼球模型が所蔵されている。
- ^ 教派神道連合会
- ^ コトバンク 柴田花守
- ^ 小城市の歴史上の人物 柴田花守
- ^ 國學院大学デジタル・ミュージアム
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