柴五郎 しば ごろう
生年が万延元年(1860)とする説もある。福島生まれ。陸軍軍人。父は会津藩士。兄は『佳人之奇遇』の著者柴四朗(東海散士)。青森県庁給仕を経て、陸軍士官学校卒業。明治12年(1879)砲兵少尉に任官。17年(1884)中尉に進級後、21年(1888)まで清国に駐在し、調査活動などに従事。28年(1895)日清戦争出征。33年(1900)清国公使館付武官となり、義和団事件で北京籠城戦を指揮、功績を称えられた。37年(1904)日露戦争に出征。大正8年(1919)大将、台湾軍司令官。10年(1921)軍事参議官。昭和5年(1930)退役。20年(1945)自決未遂の後、病死した。
キーワード | 陸軍軍人 |
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柴五郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 14:04 UTC 版)
柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日〈万延元年5月3日〉 - 1945年〈昭和20年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。第12師団長・東京衛戍総督・台湾軍司令官・軍事参議官を歴任した。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。柴四朗(東海散士)は兄。陸士旧3期。
- ^ 小山矩子『日本人の底力 陸軍大将 柴五郎の生涯から』文芸社 2007年
- ^ 石光 1971, p. 9
- ^ 島田謹二『アメリカにおける秋山真之(中) 米西戦争を観る』2009年、朝日文庫
- ^ The Japan Year Book1906, p85
- ^ 『稚松会会報第二十号』「死亡会員略傳 柴平四郎君」
- ^ 『稚松会会員名簿』(昭和12年12月調)
- ^ 教授コラム Vol.16「柴五郎が守り通したもの」群馬大学大学院医学系研究科総合外科学講座 肝胆膵外科学分野
- ^ 日英同盟締結:世界を驚かせたサムライ・ジェントルマン|「新・日英同盟」の行方(3)岡部 伸 ニッポンドットコム 2021.04.26
- ^ ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書
- ^ 薩摩芋、つまり薩摩藩の意。
- ^ a b c d e f g h i j k 「陸軍大将男爵内山小二郎外三名特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11113162600
- ^ 『官報』第370号「叙任」1884年9月19日。
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
- ^ 『官報』第4943号「叙任及辞令」1899年12月21日。
- ^ 『官報』第5920号「叙任及辞令」1903年3月31日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
- ^ 『官報』第772号「叙任及辞令」1915年3月2日。
- ^ 『官報』第1688号「叙任及辞令」1918年3月22日。
- ^ 『官報』第2606号「叙任及辞令」1921年4月12日。
- ^ 『官報』第3215号「叙任及辞令」1923年4月21日。
- ^ 『官報』第2022号「叙任及辞令」1890年3月31日。
- ^ 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第4323号「叙任及辞令」1897年11月27日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月7日。
- ^ 『官報』第8073号「叙任及辞令」1910年5月23日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1444号「叙任及辞令」1917年5月26日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ 『官報』第3395号「叙任及辞令」1894年10月20日。
- ^ a b 『官報』第5778号「叙任及辞令」1902年10月6日。
- ^ 『官報』第5948号「叙任及辞令」1903年5月4日。
- ^ “"Central Chancery of The Orders of Knighthood, Lord Chamberlains Office, St. James's Palace" The London Gazette (11932). May 7, 1907. p. 493. To be Honorary Commanders: Colonel Goro Shiba, Military Attaché to the Japanese Embassy”. 2020年8月2日閲覧。
柴五郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:48 UTC 版)
この籠城にあって日本人柴五郎の存在は大きく、籠城成功に多大な寄与をしたと言われる。柴五郎は当時砲兵中佐の階級にあり、北京公使館付武官として清朝に赴任していた。籠城組は各国の寄り合い所帯であったため、まず意思疎通が大きな問題となったが、英語・フランス語・中国語と数か国語に精通する柴中佐はよく間に立って相互理解に大きな役割を果たした。またこの籠城組の全体的な指導者はイギリス公使クロード・マクドナルドであったが、籠城戦に当たって実質総指揮を担ったのは柴五郎であった(フランス軍の大佐がいたが、技術系の兵種で指揮を辞退したため、残った士官では柴が各国中で最先任だったから)。解放後日本人からだけでなく欧米人からも多くの賛辞が寄せられている。 なお柴五郎は、明治期の政治小説『佳人之奇遇』で有名な東海散士こと柴四朗の弟にあたる。
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柴五郎(陸士旧3期)
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1900年(明治33年)に駐清公使館付武官(陸軍中佐)となる。義和団の乱時の北京駐在武官で公使館篭城戦を指導する。後に陸軍大将。
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