松下芳男とは? わかりやすく解説

松下芳男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/20 04:19 UTC 版)

『反戦運動史』近影(1954年)

松下 芳男(まつした よしお、1892年明治25年〉5月4日 - 1983年昭和58年〉4月9日)は、日本陸軍軍人(陸軍中尉)・軍事評論家軍事史家。「明治軍制史論」で法学博士東京大学[1])。新潟県新発田町(新発田市)出身。

人物

祖父は越後長岡藩藩士[2]、父は陸軍少佐松下亀蔵である。松下はその長男として生まれる。松下の長男は東京大学教授[3]。小学校時代の友人の兄に大杉栄がおり、大杉の死の直前まで交友があった。新発田中学仙台陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、大正2年(1913年)に陸軍士官学校を卒業(25期)。士官学校の同期には武藤章富永恭次田中新一らがいる。

同年、陸軍歩兵少尉となり、弘前歩兵第52連隊に配属される。大正6年(1917年)、陸軍歩兵中尉。大正9年(1920年)6月、大杉栄の紹介で知り合った友愛会幹部に送った私信がもとで、「東京日日新聞」に「社会主義に共鳴」した将校として報じられ、7月に田中義一陸軍大臣の指示で停職処分となる。

同年9月、日本大学に入学(1924年、法文学部卒業)。大正10年(1921年)より同13年(1924年)まで、星島二郎片山哲らが経営していた「中央法律新報」の編集長となる。この頃、軍縮問題に関心を持ち、軍備縮小同志会を訪ねる。そして、河野恒吉の紹介で水野廣徳と知り合い、その平和主義思想に多大な影響を受けた。師と仰いだ水野との親交は、昭和20年(1945年)に水野が亡くなるまで続いた。その一方で尾佐竹猛の誘いで明治文化研究会などに参加、近代日本軍事史の研究に着手することになる。

太平洋戦争中は、日本大学講師教育総監部嘱託を務める。戦後は軍事史研究に専念し、従来表ざたになっていなかった事柄を明らかにしている[4]。昭和28年(1953年)から同45年(1970年)まで工学院大学教授を務めた。

著書

脚注

  1. ^ 明治軍制史論 松下芳男”. 国立国会図書館. 2014年6月7日閲覧。
  2. ^ 松下芳男『日本軍事史説話』288頁
  3. ^ 松下芳男『日本軍事史雑話』195頁
  4. ^ 海軍史研究会編『日本海軍の本』(自由国民社)30頁

参考文献

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