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河野恒吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/07 08:03 UTC 版)

河野 恒吉(こうの つねきち、1874年明治7年)3月28日[1][2] - 1954年昭和29年)5月19日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

山口県出身[1][2][3]。河野房祐の二男として生れる[1]。成城学校(現成城中学校・高等学校)、陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業[2]、翌年1月騎兵少尉に任官し騎兵第3連隊付となる[1][4]。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業[1][2][3]。同月、騎兵大尉に昇進し騎兵第3連隊中隊長に就任[1]。1903年(明治36年)11月、陸軍騎兵実施学校教官に転じ、1904年(明治37年)4月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征[1]。この間、第2軍参謀を務めた[1]

1906年(明治39年)2月、参謀本部員(戦史)となり、1907年(明治40年)12月、騎兵少佐に昇進[1]。1912年(明治45年)1月、朝鮮総督府付武官に就任し、同年6月、騎兵中佐に進んだ[1][3]。1915年(大正4年)1月、騎兵第12連隊長に転じ、1917年(大正6年)8月、騎兵大佐に進み騎兵第1連隊付となる[1][3]。同年9月から1919年(大正8年)9月まで欧州に戦線視察のため出張[1][2][3]。1919年7月、騎兵第16連隊長に発令され、1921年(大正10年)7月、陸軍少将に進級し待命となる[1][2][3]。同年11月、予備役に編入された[1][2][3]

その後、大阪朝日新聞の軍事記者を務めた[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

位階
勲章等

著作

  • 『陸海軍は党せず : 附・青少年訓練』更新社、1925年。
  • 『戦はずして勝つ』新光閣、1934年。
  • 『国史の最黒点』前編・後編、時事通信社、1963年。

親族

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、67頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』237-238頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』129頁。
  4. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』124、129頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」54頁。
  6. ^ 『官報』第1526号「叙任及辞令」1917年9月1日
  7. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月5日。
  8. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

  • 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。



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