柳田國男との関係とは? わかりやすく解説

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柳田國男との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 15:57 UTC 版)

折口信夫」の記事における「柳田國男との関係」の解説

柳田國男との間には以下のようなエピソードがあった。 1915年大正4年)の『郷土研究』誌に載った論文で、互いに似通った折口柳田論文前後して載せられるという事件があった。折口昨年のうちに送ったものが採用されず、柳田の「柱松考」が3月号、折口の「髯籠の話」が4-5月号に載ったというものだが、それを後に振り返って折口言った先生の「柱松考」を先に見ていれば、わたしは「髯籠の話」など書かなかった」という言葉に、潔癖さ厳しさ表れている。 そして柳田も「(折口君という人は)真似受け売り天性嫌いな幾分時流逆らっていくような、今日学者としては珍しい資質具えている」とその点では認めていた。ただし「マレビト」を認めない柳田折口の間に論争があったのも事実である。二人国学先輩方に当たる賀茂真淵本居宣長師弟のように、教えを受けながらも正当だ思ったところは譲らず、真理追求を磨く学者の関係を持っていたといえる柳田は、折口より12歳年上であったが共に1945年昭和20年)の敗戦時には60歳を既に迎えていた。その戦後のことを、重い口調で柳田折口話しかけたという。「折口君、戦争中日本人桜の花が散るように潔く死ぬことを美しいとし、われわれもそれを若い人強いたのだが、これほど潔く死ぬ事を美しいとする民族が他にあるだろうか。もしあったとしてもそういう民族早く滅びてしまって、海に囲まれ日本人だけが辛うじて残ってきたのではないだろうか。折口君、どう思いますか」その問いにしばらく両者深く思い沈んでいたという。折口には、18年間共にした養嗣藤井春洋硫黄島玉砕という重い出来事があった。その追悼の念は徹底的で、敗戦の詔を聞く四十日間喪に服し自分の死ぬまで遺影前の供養を欠かさなかったという。第二次大戦失った戦死者鎮魂大きな課題で、戦没者生前殉じる価値見出そうとした皇国などといった概念天皇の人間宣言とともに潰え果てたのである柳田日本人の神や魂といった問題意識共有していて、折口は後その問題を「民族史観における他界観念」という著に収斂させていくこととなる。 柳田民俗現象比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化起源に遡ろうとした帰納的傾向所持していたのに対し折口はあらかじめマレビトヨリシロという独創的概念日本文化起源があると想定し、そこから諸現象説明しようとした演繹的な性格持っていたとされる。なお『遠野物語』折口跋文がある(現:角川ソフィア文庫)。

※この「柳田國男との関係」の解説は、「折口信夫」の解説の一部です。
「柳田國男との関係」を含む「折口信夫」の記事については、「折口信夫」の概要を参照ください。

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