朝霞大仏・大梵鐘計画
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「キャンプ・ドレイク」の記事における「朝霞大仏・大梵鐘計画」の解説
1933年(昭和8年)に膝折上の原(現:武蔵大学グランド、自衛隊演習地)に根津公園計画が立案される。東上鉄道社長であった根津嘉一郎が5万坪(約16万平方メートル)を購入・計画した一大レジャーランド施設である。1935年(昭和10年)には購入した根津公園内に梵鐘、大仏用台座を製作する鋳造工場を建て梵鐘製作が始まる。京都の梵鐘技師である高橋才次郎を招いて鋳造された。この梵鐘は高さ3.9メートル、重さ6,750キロで日本第3位の大きさを誇った。またこの年、武蔵の原には大仏用の鉄骨造り30mの作業所が建設され、この作業所において彫刻家、内藤仲による大仏原型の作成が行われ、1937年(昭和12年)には130万円もの巨費を投じて高さ58尺(19.1メートル)、仏身39尺(12.8メートル)、蓮台9尺(2.9メートル)大仏の原型が完成している。 大仏設計者である斎藤歳次郎は「昭和の大仏として永久に残るもので、精神をこめてつくり、見て自然と頭が下がるものにしたい」と語っている。なお大仏の本完成を前に根津公園には記念碑が建立されている。 この年に日中戦争が勃発。その後の太平洋戦争時に陸軍予科士官学校や近隣地区に存在した大和田通信所の目標になるとされて計画は中止され、完成していた大仏の原型は破壊されている。梵鐘は金属提供されて軍需物資へと成り変わった。近年、この大仏計画に関係する大燈籠のひとつが東京多磨霊園に残っていることが判明している。 米軍進駐後には根津にちなみ「ネズパーク」(正しくは“ネヅ”)と名付けられた。
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