有色ガラスの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/19 13:24 UTC 版)
三十年戦争後にボヘミアがハプスブルク帝国に編入された後も、ボヘミアのガラス工芸は時代ごとに新たな作風が開拓されていく。18世紀中頃から19世紀前半にかけて続いた戦争はボヘミアのガラス産業に大打撃を与え、ヨーロッパ各国が輸入品に高い関税をかけたためにボヘミアガラスの輸出量は激減する。さらに古典主義時代には、ボヘミアガラスはイギリスの鉛クリスタルガラスの影響を強く受けた。面ごとガラスをカットするイギリス風のダイヤモンド・カットに対抗して、ボヘミアではV字形に掘り込んだ直線の溝を交差させる様式が新たに考案され、V字形の溝が交差して生まれる輝きはボヘミアガラス独自のスタイルとして定着する。 19世紀にボヘミアガラスに訪れた危機は、有色ガラスの開発によって克服される。1832年頃にはフリードリッヒ・エガーマン(ペドジフ・エゲルマン)によって、かつてステンドグラスに使われていたステイニング(酸化銀、酸化銅を使ったガラスの着色法)が再発明される。エガーマンはステイニングを利用して、大理石や木の年輪のような多層の模様をもつリシアリンガラスを開発した。ほかにエガーマンは半貴石を模した瑪瑙ガラス、孔雀石を模したジャスパーグラスを開発し、開発した素材の上にエナメル金彩を描いてボヘミアガラスの新たな境地を開拓した。エガーマンによって発明された有色ガラスの一つであるヒアリスガラスは、濃度の高い赤・黒色のガラスで、イギリスのウェッジウッドから着想を得たと考えられている。 19世紀半ばには、ガラス職人クラリクによって様々な色のアラバスターガラスが発明された。有色ガラスを利用した技法の一つには、ガラスの生地に有色ガラスを重ね、カットやグラヴィール彫刻を施していく被せガラスがある。19世紀には輸出用の登録商標として「ボヘミア・クリスタル」という名称が考案され、ブランド・イメージの向上に大きな役割を果たした。 19世紀末にはボヘミアガラス独特の特徴は徐々に失われていき、作業工程の機械化が進展していく。こうした趨勢に対して、ボヘミアガラスの伝統と技法を守ろうとする動きが起こり、各地にガラス製造のための教育機関が続々と設立される。1890年代には、ボヘミアガラスにもアール・ヌーヴォーの影響が及んだ。アール・ヌーヴォー期には、ガラスに薬品を塗って虹色の被膜を作り出すラスター彩の技術が再生され、ラスター彩による虹彩ガラスが人気を博した。1903年から1938年まで活動していたウィーン工房はボヘミアやモラヴィアの工房に作業を外注し、ウィーンの簡素なデザインはボヘミアガラスにも影響を与える。 1925年にパリで開催されたパリ万国博覧会(アール・デコ博覧会)に出品されたヤロスラフ・ホレイックのグラヴィール彫刻は高い評価を受けた。
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