最後のグアム軍政知事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/28 04:46 UTC 版)
「チャールズ・A・パウナル」の記事における「最後のグアム軍政知事」の解説
戦争終結後の1946年5月30日、パウナルはグアムの軍政知事に就任する。グアム島政府の体制を整理し、グアムの旗とグアムの紋章を制定した。 2年後の1948年、パウナルはジョン・L・サリヴァン海軍長官の容認の下、知事の承認の可否に関わらずグアム議会が独自に法律を作成できる体制作りに尽力した。しかし、グアム議会側からアメリカ国民を議会承認を経て召喚できるようにする法律案が提出された際、パウナルはその承認を拒否した。このころ、グアムで婦人服店を経営しているエイブ・ゴールドスタインによる、アメリカ人を含む虐待疑惑が噂された際に議会はゴールドスタインを召喚しようとしたが、ゴールドスタインはパウナルの拒否を理由に証言を拒否した。グアム議会はゴールドスタインを侮辱罪で告訴し逮捕令状を発行したが、これもパウナルの命令によって効力を失った。 騒ぎが大きくなったことにより、パウナルはグアム選出のアメリカ合衆国下院代議員でグアム議会の議長でもあるアントニオ・ボルハ・ウォン・パットに事の責任を押しつけようと図ったが、真相を知ったウォン・パットはパウナルの行為に反発した。ウォン・パットの反発に議会と議会寄りのメディアが呼応して、パウナルとパウナルを擁護するメディアに対して抗議を行う一方、グアム先住民に市民権を与えるよう要求する法案を決議し、アメリカ合衆国議会がこの問題に向き合ってくれるまでパウナルの命令をあくまでも拒否する姿勢を打ち出した。3月12日、パウナルは特別統合議会を召集したが、ほとんどの議員は出席を拒否。これを見たパウナルは、この際に出席を拒否した自分に不実な議員を全員排除しようと画策し、実行に移した。これに対し、議会を解任されたグアム住民代表議員とグアムの19村の代表12名は、パウナルが据えた議員をあくまで認めないことを決めた。 グアムでの騒動はついにワシントンD.C.にも届き、トルーマンは騒動の調査を命じる。これと平行してトルーマンはグアム暫定仮政府を立ち上げ、4月2日にパウナルに対して解任した議員を復職させるよう圧力をかけた。翌1949年9月、グアムの管轄は内務省に移され、民政に移管したことを受けてトルーマンはパウナルを解任し、後任としてカールトン・スキナー(英語版)をグアム最初の民政知事として任命した。かくして、パウナルはグアム最後の軍政知事となった。 1975年7月19日、パウナルは87歳で亡くなった。
※この「最後のグアム軍政知事」の解説は、「チャールズ・A・パウナル」の解説の一部です。
「最後のグアム軍政知事」を含む「チャールズ・A・パウナル」の記事については、「チャールズ・A・パウナル」の概要を参照ください。
- 最後のグアム軍政知事のページへのリンク