最後のザクセン=コーブルク=ゴータ公
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「カール・エドゥアルト (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)」の記事における「最後のザクセン=コーブルク=ゴータ公」の解説
チャールズ・エドワードがザクセン=コーブルク=ゴータ公カール・エドゥアルトとして親政を開始したのは、21歳の誕生日を迎えた1905年7月19日からである。同年10月11日にはグリュックスブルク公フリードリヒ・フェルディナント(デンマーク王クリスチャン9世の甥)の娘ヴィクトリア・アーデルハイト公女と結婚した。夫妻の間には5人の子供が生まれたが、長女シビラは1932年にスウェーデン王家に嫁ぎ、現国王カール16世グスタフの母后となった。 第一次世界大戦中、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の従弟でもあったカール・エドゥアルトはドイツ人としてドイツ帝国を支持し、ドイツ陸軍の将軍として任務に就いていた。大きな指揮権を持つことはなかったが、イギリス王族がイギリスに敵対する立場に立ったということは看過できないことであった。そのためもう一人の従兄であるイギリス王ジョージ5世は、1915年にガーター勲章を、続く1917年には称号剥奪法に基づいてオールバニ公爵位を剥奪した。なお、1917年にはイギリス王家の家名もドイツ風のサクス=コバーグ=ゴータ(ザクセン=コーブルク=ゴータ)家からウィンザー家へと改めている。さらに終戦後の1919年にはカール・エドゥアルトとその子孫からイギリス王族としての身分(Prince of the United Kingdomの称号とHRHの敬称)も剥奪された。一方、ドイツ革命によって1918年11月18日にはザクセン=コーブルク=ゴータ公も廃位された。公国はヴァイマル共和政のもとでコーブルク自由州とザクセン=ゴータ自由州に分離した後、バイエルン州とテューリンゲン州に編入されて消滅した。
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