最後のエジェヴィト政権
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「ビュレント・エジェヴィト」の記事における「最後のエジェヴィト政権」の解説
1998年にユルマズ政権が倒れると、スレイマン・デミレル大統領はエジェヴィトに組閣を命じ、中道左派の民主左派党と中道右派の祖国党、民族主義政党の民族主義者行動党の連立によるエジェヴィト政権が発足した。 エジェヴィト政権は連立各党をあわせても過半数に満たない少数政権であり、間も無く総選挙が予定されていたことから選挙管理内閣と見られていたが、総選挙の直前にクルド人独立運動の急進的ゲリラ組織であるクルド労働者党の指導者アブドゥッラー・オジャランがトルコ政府によって逮捕されたことをきっかけに支持率が急伸し、状況が一変した。 1999年の総選挙で民主左派党は550議席中136議席を獲得して第1党となり、安定多数を得た連立政権のもとでエジェヴィトは選挙後も再び首相に就任した。 選挙後のエジェヴィト政権は、安定多数をもとに停滞していたヨーロッパ連合の加盟に向けた経済・人権問題の改革に取り組んだが、政権の内では閣内の不一致や民主左派党内の対立、外では記録的なインフレーションによる経済の混乱や度重なる金融危機に悩まされ、更に高齢のエジェヴィト首相の健康不安が表面化したことにより、支持を失っていった。 2001年に政権2度目の金融危機を受けてIMFの支援を受け、トルコ出身の世界銀行副総裁ケマル・デルヴィーシュを財政経済担当相に招聘したことにより、トルコ経済は立て直しに向かった。しかしエジェヴィト政権の求心力低下は収まらず、2002年にはエジェヴィト首相の入院をきっかけとする政治危機でイスマイル・ジェム外相やデルヴィーシュ経済相らが閣僚を辞任したことにより、政権は末期症状を呈した。同年11月3日の総選挙で民主左派党は総票数のわずか1パーセント強を得るのみの大敗を喫し、10パーセント条項に基づいて大国民議会から議席を失ったため、エジェヴィト政権は退陣した。 議席喪失後もエジェヴィトは政治活動を続けたが、2004年に民主左派党の党首職を離れた。2006年5月、エジェヴィトは脳出血で倒れ、アンカラの病院に入院。意識不明の重態が半年近く続き、11月5日の22時40分に死去した。
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