最後のインカたち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 03:34 UTC 版)
詳細は「ヌエバ・カスティーリャ(スペイン語版、英語版)」、「ヌエバ・トレド(スペイン語版、英語版)」、および「ペルー副王領」を参照 「en:Governorate of New Andalusia」および「es:Gobernación de Nueva León」も参照 スペイン人たちはアタワルパの弟マンコ・インカ・ユパンキ(一説に弟ではなく、下級貴族出身とも)の擁立を強行し、スペイン人たちが北部の反乱を鎮圧する戦いの間は協力関係が続いた。その間、ピサロの仲間ディエゴ・デ・アルマグロはクスコを要求した。マンコ・インカはスペイン人同士の不和を利用することを試み、1536年にクスコを回復したが、スペイン人たちに奪還された。 マンコ・インカはビルカバンバに後退し、彼とその後継者たちはそこで新しい「ビルカバンバ(Vilcabamba)のインカ帝国(スペイン語版、英語版)」(1537年 - 1572年)を更に36年間統治し、スペイン人たちへの襲撃や反乱の扇動を続けた。こうした状況の中、伝染病が壊滅的な打撃を与えた。さらに、ヨーロッパから到来した他の病気の波により更に人口は減少した。1546年(推定)のチフス、1558年のインフルエンザと天然痘、1589年の天然痘再流行、1614年のジフテリア、1618年の麻疹、こうしてインカ文化の残滓は破壊された。1572年、インカの最後の要塞が征服され、マンコ・インカの皇子で最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられ、クスコで処刑された。ここにインカ帝国の政治的権威下でのスペインによる征服への抵抗は終結した。
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